大判例

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京都地方裁判所 昭和27年(わ)923号 判決

本籍 京都市右京区太秦安井辰巳町一番地の四

住居 同区太秦安井小山町八番地安井マート内

傭人 菅原実

大正一五年一月一二日生

本籍 京都市右京区太秦安井車道町二二番地

住居 同町一七番地

薬剤師薬品小売業

八住梧楼

明治三二年一月五日生

右両名に対する破壊活動防止法違反事件について当裁判所は検察官早川勝夫出席の上審理を遂げ次のとおり判決をする。

主文

被告人両名は無罪

理由

本件において検察官が主張した公訴事実の要旨は

被告人両名は共謀の上内乱を実行させる目的で

一、昭和二七年九月六日頃京都市右京区太秦安井車道町被告人八住梧楼方において春山こと文億洙に対し内乱の正当性及び必要性を主張した文書を掲載した日本共産党京都府委員会発行の「京都のハタ」復刊第二号一〇〇部を交付し

二、同日同所において山内一郎に対し同文書五〇部を

三、同日同所において学生風の氏名不詳者に対し同文書三〇部を交付し

四、同月九日頃同市右京区西院春日通六角下る西院生活を守る会事務所において同会責任者柏木延久に対し同文書一〇〇部を交付し

五、同月一〇日同区国鉄山陰線花園駅前道路において谷山寿及び森本福一に対しそれぞれ同文書一部を交付し

それぞれこれを頒布した。

と謂うのであつて検察官は右の行為は破壊活動防止法第三八条第二項第二号に該当すると主張している。

第一、京都のハタ復刊第二号を頒布した事実の有無

一、検察官提出の証拠中(証人供述調書を証言と略記する)

1  被告人両名の司法警察員及び検察官に対する各供述調書

被告人八住の懐中日記帳(検乙第五五号)

2  証人文億洙の第一、二回証言

同人の検察官に対する各供述調書(検甲第五三号第五四号)

3  証人山内一郎の第一、二回証言

同人の検察官に対する供述調書(検甲第六五号)

同人の懐中日記帳(検乙第一一九号)

証人加納喜一の証言、同人の任意提出書(検甲第六七号)

京都のハタ復刊第二号一部(検乙第四八号)

証人山下正雄の証言、同人の任意提出書(検甲第七一号)

京都のハタ復刊第二号一〇部(検乙第五三号第五四号)

4  宮崎喜代栄の検察官に対する第二回供述調書(検甲第七三号)

5  京都市右京区西院今田町五三松山ヌイ方で行われた捜索差押調書(検甲七五号)

京都のハタ復刊第二号一二六部(検乙第五九号)

6  証人谷山寿、同森本福一の各証言

昭和二七年九月一〇日付領置調書二通(検甲第七八号第七九号)

京都のハタ復刊第二号二部(検乙第六五号第六六号)

によると被告人両名は何れも日本共産党員であつて被告人八住は昭和二六年頃まで被告人菅原はその頃から京都市右京区安井花園細胞の責任者となり、同党京都府委員会等上部機関から被告人八住方に送付せられた新聞パンフレツト等については両名協力して配布発売していたのであるが、公訴事実中第一乃至第三及び第五記載のとおり被告人両名共謀の上日本共産党京都府委員会の指令により昭和二七年九月六日頃被告人八住方において上部機関からレポ(連絡者)を通して送付せられた日本共産党京都府委員会発行名義京都のハタ復刊第二号二〇〇部中一〇〇部を文億洙に、五〇部を山内一郎に、三〇部を学生風の宮崎喜代栄にそれぞれ同人等及び同人等を介して他へ販売する目的で交付し、同月一〇日午前八時頃国鉄山陰線花園駅前道路において日本共産党機関紙赤ハタ等と共に前記京都のハタ復刊第二号を販売中折柄出勤の途上にあつた京都府警察吏員谷山寿に赤ハタ一部と共に前記京都のハタ復刊第二号一部を代金一五円で同警察吏員森本福一に、前記京都のハタ復刊第二号一部を代金一〇円で売渡した外、被告人菅原は単独で同月九日同市右京区西院春日通り六角下る西院生活を守る会事務所において同会長柏木某に同人及び同人を介して同会員に販売する目的で同被告人が同日日本共産党京都府委員会選挙事務所で同党員平田敏夫の承認を得て入手した前同様の京都のハタ復刊第二号一〇〇部を交付してこれを頒布した事実を確認することが出来る。

二、右の事実と

7 前掲6の証拠書類及び証拠物一九五二年九月五日発行赤ハタ(検乙第七二号)

8 昭和二七年一〇月一〇日付及び同月一七日付領置調書(検甲第六八号第七二号)

同年九月二一日付捜索差押調書(検甲第七六号)

一九五二年五月八日発行日本共産党京都府委員会京都のハタ復刊の言葉に代えてとの記載のある京都のハタ復刊第一号(検乙第五一号第五四号第六一号)

を綜合すると前記京都のハタ復刊第二号は同第一号と共に日本共産党京都府委員会発行の機関紙であることが明かである。

第二、京都のハタ復刊第二号の内容

京都のハタ復刊第二号は前掲証拠によると昭和二六(一九五二)年六月八日に発行せられ第一面に「国際的連帯性を強化し第四波ゼネストを更に全国民的夏期斗争へ」と題する文書を掲げ、第二、三面に一九五一年一〇月三日付「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と題する文書第四面及び附録一枚を通し一九五二年一月二三日付「中核自衛隊の組織と戦術」と題する文書を掲げている。その内容は概ね次のとおりである。

一、われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない

1  われわれは何故に軍事組織が必要か。

日本国民の利益を守つて現在の奴隷状態から救い民族解放民主革命を斗いとるためにはアメリカ帝国主義者の日本に対する占領制度を除かねばならない。ところが彼等は日本国民ばかりではなくソヴイエト同盟や中華人民共和国をはじめアジアの諸民族を侵略し支配する野望を抱きこれを達成するために近代的な軍事科学によつて武装された軍隊と軍事基地を日毎に強め新しい戦争計画を推し進めている。又反動的な吉田政府を援けて日本の国土と国民を彼等の相棒に仕立てようとしている。

売国的な吉田政府はアメリカ帝国主義者のこの野望に同意し、占領制度を延長するために日米安全保障条約を結び、警察や予備隊、海上保安庁の新しい軍隊を強めている。彼等はこれによつて軍国主義を再建すると共に警察や軍隊の周囲に消防団、鉄道公安官、刑務官等やガード、職制、反動的暴力団等を結集し、国民にフアツシヨ的な体制を押しつけている。この侵略的な武装力と一切の暴力組織が吉田政府と占領制度に反対する国民を弾圧し戦争によつて利益を得る日本の総ての反動勢力を守つている。従つて「平和的な方法だけでは戦争に反対し国民の平和と生活を守る斗を推し進めることはできないし占領制度を除くために吉田政府を倒して新しい国民の政府をつくることも出来ない」。彼等は武装しておりそれによつて自分を守つているだけではなく、われわれを亡そうとしているのである。「この斗には敵の武装力から味方を守り敵を倒す手段が必要である。この手段はわれわれが軍事組織をつくり武装し、行動する以外にない。」軍事組織はこの武装行動のための組織である。この組織は日本国民の他の政治斗争と同じく敵に対する斗の組織であり、全体の階級斗争の組織と行動の一部をなすものである。しかしこれは階級斗争の最も先進的な最も重要な部分であつてこの組織と行動なしにわれわれは敵に勝つことが出来ない。従つてわれわれはどうしても軍事組織をつくることが必要であり、これをつくらなければならないのである。

2  敵の武装と対抗できる軍事組織をつくることができるか。

敵の武装力は日本の国土と国民に依存している。彼等の近代的な軍事行動の基礎となる軍需品の生産と輸送は労働者階級の手に握られているが、この階級こそ最も戦斗的なわれわれの味方であり主力である。又敵の機動力に不可欠な交通路線は農村の幾百万の農民の前にさらされている、この農民も亦労働者と同じく敵の収奪に苦しみこれと斗つているわれわれの味方であり農村の主力である。

更に敵が彼等を守るために養い育てている軍隊の多くの部分も彼等に搾取され抑圧され生活の道を失つた労働者と農民の出身であり常に動揺し内部で対立している。彼等は吉田政府の政策に反対してわれわれの味方に参加する条件を持つている。その上最も重要な問題は敵と味方の軍事的対立は必ずわれわれが勝利する歴史的な階級斗争の一つでありその基礎の上に立つていることである。

尚この斗でわれわれは国際的に強い同盟者をもつている、特にソヴイエト同盟や中華人民共和国をはじめ人民々主々義諸国は機会あるごとに日本の国民を励ましており多くのアジア諸民族は共同の敵アメリカ帝国主義者に対して既に武装して斗つている。

従つてわれわれが問題を正しく捉えて発展させるならば敵の武装力に対抗できる軍事組織をつくることができるだけでなく、彼等と斗つて必ず勝利することができる。既に国民の間では部分的ではあるが彼等に対抗する直接的な行動が組織されており武装を求める前進的な斗争も行われている、しかも情勢はこれを全国的な規模に発展させる条件を備えているのである、この発展のためには革命の指導者であり前衛であるわが党はこの問題を真剣に考え総ての斗争を意識的に計画的にこの立場から指導すると共に軍事組織と武装行動のための準備を具体的にとりあげることが必要である。

3  労働者や農民の軍事組織をつくるにはどうすればよいか。

それは武器をとつて国民をこの奴隷的状態から救い民族解放民主革命のため献身する意思と決意と能力を持つ人々を結集する以外にない。軍事組織の最も初歩的な、また基本的なものは現在では中核自衛隊である。従つてわれわれはこの人々を中核自衛隊に組織しなければならない。

中核自衛隊は工場や農村で国民が武器をとつて自ら守り敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦斗的分子の軍事組織であり日本における民兵である。従つて中核自衛隊は工場や農村で武装するための武器の製作獲得、保存や分配の責任を負い又軍事技術を研究しこれを現在の条件に合せ斗争の発展のために運用し更にこの実践を通して大衆の間に軍事技術を普及させる活動を行う、中核自衛隊はこれらの活動を真に具体化し工場や農村の平和斗士や反フアツシヨ委員会などあらゆる形の抵抗自衛組織をつくりこれに協力してこれを強める活動を当面の最も重要な仕事とする。

抵抗自衛組織による抵抗自衛斗争は工場や農村における最も先進的な斗である、これらの組織は既に英雄的行動を組織している。工場では軍需品の生産や輸送をはばみ、農村では山林の解放や軍事基地への土地取りあげと斗い漁村では爆撃演習のための出漁禁止と斗つている。軍事組織はこの斗争を更に広く、また深く発展させることによつて国民を武装する条件をつくり出すことができる。またこれに協力し参加することによつて抵抗自衛斗争の中から新しい戦斗的分子を軍事組織の中に吸収し組織の力を常に拡大させることができる。従つて抵抗自衛斗争は軍事問題を発展させ軍事組織をつくる現在の環であるがこの斗争自身は細胞や党機関によつて行われるものである。それ故軍事問題は軍事委員会や軍事組織だけの問題でなくして細胞や党機関全体の問題である。

軍事委員会の任務は国民を武装するための研究と準備を具体的に進め、軍事組織をつくりこれを指導発展させていくことと敵の武装力を内部から弱め敵の部隊をわれわれの味方に引き入れる工作を組織し指導することである。現在の軍事組織は中核自衛隊であるが軍事委員会はこの基本的組織を発展させることによつて更に労働者や農民のパルチザンや人民軍を組織していくことを大きな目的としてこれを政治的に指導する責任を負うのである。

4  何故、抵抗自衛斗争は軍事問題を発展させる環なのか。

抵抗自衛斗争の特徴はストライキやデモと異りそれが恒常的な政治斗争の本質をもつており、抑圧と搾取のための総ての暴力に対抗して斗つている点にある、その方法は敵の監視や力の限度を利用し、その弱点や透間を攻撃して敵に打撃を与えるのである、これにより工場では軍需品の生産と輸送を破壊し農村では軍事基地の建設を阻み漁村では爆撃演習を阻止するなど直接敵の軍事目的に打撃を与えている、従つてこれは斗争の方法も敵に与える被害と打撃も現在の軍事、政治的目的と効果に一致した最も先進的な斗争ということができる、「もともとわれわれの軍事的な目的は労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これを結合した労働者階級の武装蜂起によつて敵の権力を打ち倒すことにある。しかしこれは失敗することのできない最後の斗争の形式である、この期間までの長い過程はその準備として防禦戦の段階である」この段階は敵に対し守勢に立つことをいうのではない只味方の武装力が全体として劣勢であり、敵の全勢力を正面攻撃する力に不足していることをいうのである、この時期における攻勢は、敵の力を弱め分散し透間をつくり透間を攻撃することによつて、更に敵を弱める仕事を繰返すと共に、味方を訓練して力と経験を蓄えるようにしなければならない。この抵抗自衛斗争は防禦の段階における原則に従つて、組織されている。この斗争は敵の軍事目的と国民を弾圧する力を弱め破壊し麻痺させることを目指しており、この斗争が発展するならば、敵はこれを監視するために自分の力を分散しなければならない、それ故敵が透間をつくり攻撃の機会を与え打撃を受けることは、われわれが大きな勝利を得る道であり、この勝利を結合して更に高い軍事行動即武器をもつた中核自衛隊や、パルチザンや、人民軍の行動を開始することが出来る、それ故、抵抗自衛斗争は軍事問題を発展させる当面の環である、全党はあらゆる努力をこの斗争の発展のために集中しなければならぬ。

5  日本で、パルチザン組織することは出来るし、また組織しなければならない。

これは非常に効果的な斗争の方法であり敵に決定的な打撃を与えることが出来る、労働者が武器を持ちパルチザンとして、組織的に行動することは敵に対する打撃を一〇〇倍にすることがあるが、危険も亦、数倍化する、それ故、われわれがパルチザンを組織する場合には、労働者や農民の抵抗自衛斗争の強化、中核自衛隊の組織の発展を通じ、その基礎のうえに組織するということである、何故なら「パルチザンの目的は敵の弱点透間過失等を攻撃し敵の分散した力に対して味方の集中した力で攻撃を与えることにある、従つて攻撃の目的を達成したら直ちに転廻して敵から自らを守る、味方の地域へ引き揚げ、次の機会を待たなければならない。」現在の日本においてパルチザンが自らを守る道はパルチザンを支持しこれを援助し守つてくれる拠点を最も戦斗的な大衆の間に求め、その間にとけ込み大衆から守られる以外にない、それ故パルチザンを組織する場合には労働者や農民の抵抗自衛斗争の強化中核自衛隊の組織の発展を通じ、その基礎の上に組織しなければならない。この拠点を基礎に攻撃のための集中と退却のための分散が自由自在に行われ又新しい戦斗的分子をその中から引き入れることができる。「このようにして戦斗が繰返され大衆行動と軍事的勝利が蓄積されるならわれわれは敵の支配を地域的に麻痺させ真の根拠地をつくり上げることができる」こうして、われわれの武装力によつて敵の支配がくつがえされ軍事組織も参加した民族解放民主統一戦線が地域的な支配を確立するならばこれこそわれわれの権力に外ならない」大衆斗争の発展と軍事的勝利の後にはわれわれは意識的に計画的に根拠地をつくらなければならない。

6  われわれの軍事組織はどのような活動をするのか。

「当面している軍事情勢は長期に亘る防禦戦の段階である」この段階でわれわれの戦術は守勢に立つのでなく敵の分散した小さな勢力を味方の集中した力で攻撃する軍事行動を積極的に行うことである、われわれの軍事組織はこの根本原則に従つて敵の部隊や売国奴達を襲撃し、それを打ち破つたり軍事基地や軍需工場や軍需品倉庫、武器施設車輌などを襲い破壊したり爆発させたりすることである。占領制度を除くためにはわれわれはあらゆる手段をとらなければならないし、またそれは許されるのである、この場合通常の支配者の道徳は適用されないのであり、それに影響されてはならないのである。

従来われわれの一部には、そのような意識的な攻撃をすべて一揆主義と考えたり、又大衆の職制や売国奴に対する憎しみから来る直接行動や自発的な軍事行動をテロリズムと考える傾向があつたが現在の情勢はこのような考では斗争を発展させることが出来ないほど尖鋭化している、従つてわれわれはこの直接行動を意識的計画的に組織すると共に大衆の自発的な行動に対しても進んでこれに協力し指導し軍事組織の行動を結合させていかねばならない。

7  われわれの軍事科学とは何か。

それは民族解放民主革命を達成するための革命戦争の技術と法則である。われわれの軍事科学は武器をつくることや、それを保存したり使用したりすること等の技術的な問題から地形や条件に応じて味方を配置し力を充分に発揮する作戦や全革命戦争の見透しと戦術など日本の革命戦争に必要な一切なものを含んでいるのである、われわれの軍事科学の最も基本的な法則は、マルクス、レーニン、スターリン主義である、何故ならばわれわれの軍事行動は階級斗争の一部であり、その最も戦斗的な斗争手段であるマルクス、レーニン、スターリン主義は、この階級斗争の勝利への道を教える法則である、われわれは、これを基礎にして日本や中国やソヴイエト同盟の軍隊の法則令や条令や典範令や勝利や敗北の経験、革命戦争の戦略や戦術等を研究し、日本の軍事組織の発展と革命戦争の実践に適用する新しい軍事法則を確立しなければならない。

8  われわれは敵の武装力に対し内部工作をする必要がある。

われわれが民族解放民主革命を達成するためには、敵の陣営が内部から麻痺し混乱し、反乱を行つて敵の支配力や抵抗力が維持できなくなることが必要である、このための工作の一つが敵の武装力に対する内部工作である。

敵の武装力の中で最も重要なものは、アメリカ占領軍と日本軍隊および警察である、敵はこの三つの武装力を基礎にしてこの周囲に消防団鉄道公安官刑務官やガード職制反動的暴力団等の国民を抑圧する一切の暴力組織を結集しているのである、われわれの内部工作はこの総てに対して行われるのであるが、その中三つの基幹に対する工作が特に重要である。

これらの工作で最も重要なことはわが党が民主的な諸国団体と協力して彼等に対する特別の行動隊を組織しあらゆる問題を彼等に訴えわれわれの味方に引き入れるための公然たる活動を行うことである。われわれは既にこれ等の工作を行つている軍事委員会が内部の組織を系統的に指導し、党機関が他の民主的諸国団体と協同して公然と工作するならこの工作も大きな力に成長することができる。

9  民族解放民主統一戦線と軍事組織とはどんな関係をもつか。

軍事組織の目的は日本国民を現在の奴隷状態から救い人間らしい自由と生活を斗いとることにある。このために国民の武装した力によつて現在の反動制度を撤廃し民族解放民主制度を確立するのである。従つて軍事組織は民族解放民主統一戦線の最も先進的な最も戦斗的な行動の部隊である。軍事組織はこの統一戦線の綱領に忠実でありこれを実現するために獻身的でなければならない。また自らの力を強めるためにも同盟者と協同して新しい国民の政権をつくるためにも進んで統一戦線の結集に努力し地方や全国の統一戦線に積極的に参加しなければならない、そうしてのみ国民の利益のための国民の武装組織となることができるのである。「それ故にこそ軍事組織が大衆斗争と結合して敵の武装力を地域的にくつがえすならばそれが直ちに国民の権力を地域的に打ち立てる力となるのである」

国民武装力は、指導階級としての労働者階級の前衛であるわが党の指導のもとになければならない。わが党の指導なしに勝利の道を前進することは出来ない。

中核自衛隊やパルチザンや或は人民軍はわが党の軍事委員会の一貫した指導によつてのみその力を民族解放、民主革命のために捧げることができる。

われわれは武装した権力を敵とし、これと斗つている、この敵は日本国民を奴隷化し戦争に引きいれるために国民の生活を破壊し自由を奪い、弾圧を続けている、わが党が事実上非合法化されているのもこの国民に対する弾圧の一部に過ぎない、しかも敵は明らかに武装した行動を全面的に開始している、従つて斗争に参加している広汎な人々が敵との斗いには、それがデモやストライキであつてもすべて軍事的な立場から指導と計画が必要であることを理解するに至つた、既に一部では武装して行動することが求められておりこの斗争は国民的規模へ発展する条件を充分に備えているのである。

「われわれは四全協以来その決定に基いて国民のこの要求に答え武装のための準備を整えて来た」この結果到る所で抵抗自衛斗争が組織せられ或る所では直接的な行動へまで発展している。われわれは何よりもこの斗争を広げ発展させなければならない又すべての斗争をこの軍事的立場から指導しなければならない「現在われわれにとつて一番重要なことは武装行動する条件が備つており国民もそれを求めておりそれなしに斗争を発展させることができないということである」従つてわれわれは直に軍事組織をつくり武器の製作や敵を攻撃する技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し更に軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない。アメリカ帝国主義者と吉田政府はサンフランシスコで偽りに満ちた講和条約を結び、日本の国土と国民を奴隷化し戦争に引き入れる足場を固めた。この情勢の中で前衛として歴史的任務を果すためにわれわれは武装の準備を行い、行動を開始しなければならないのである。

二、中核自衛隊の組織と戦術

1  中核自衛隊を組織せよ。

昨年末労働者階級の越年斗争の勝利の原因は職場を基礎にした抵抗自衛斗争の拡大と一般化である。この経験から学び軍事基地や軍需工場では既にこの中から中核自衛隊が組織せられている、農村において貧農及び半プロ層は苛酷な収奪と搾取の結果斗う以外に生きる道を失い実力による山林原野の解放斗争へ立上りこの実力斗争を守るために大衆的な自衛隊を組織し、地主や反動権力と対峙している。平和集会や税金斗争の大衆動員も全般的に敵の弾圧や暴力に抗して組織され敵と斗つて勝利している、「特に朝鮮人大衆の斗争は最も鋭い形をとつている」がこの行動の中核となつているものは、中核自衛隊や五人乃至一〇人を単位とする大衆的な自衛組織である。このような労働者や農民をはじめ、国民の実力による抵抗自衛斗争を拡大することと、この中から中核自衛隊を全面的に組織することが必要である、もはやこれなしには敵の弾圧と斗つて民族解放民主統一戦線を前進させることはできない。

2  隊の組織と構成。

中核自衛隊の特徴は、工場や部落や町や学校を基礎にして軍事行動を行うことにある、これを組織するに、第一に斗争を通して武器をとつて斗う意思と能力を持つ人を組織しなければならない。第二に綱領と規約を定め民族解放民主革命のため死を賭してアメリカ帝国主義者や売国奴と斗うこと、「いかなる場合にも革命のための秘密を守り隊を裏切らないこと」等を明確にし一つの部隊に編成することである。第三、隊の編成は機敏な行動に適するように工場や部落や町や学校を中心に一〇人以内で一つの隊を組織する、隊員が増加すれば五人乃至一〇人の隊を小隊としこれを基礎にして二乃至三小隊で一中隊、二乃至三中隊で一大隊を編成する、第四、隊の指揮機関には、それぞれ長を置き指揮系統を通して中央の軍事委員会につながると共に、各隊には必ず一名の政治委員を設ける、軍事行動は長の指揮に従い大衆斗争との結合や大衆動員の組織は主として政治委員の方針に基いて行かれる、第五、政治委員は党の各級機関の指導部に参加し正確な情勢評価に基く党の方針を軍事的行動の中で実践するように努力する。

中核自衛隊が組織され隊の行動によつて大衆斗争が発展し軍事行動が一般化するならば、それに従つて中核自衛隊の組織や行動も拡大され強化され高度化される。またそれは更にパルチザンや人民軍に発展することが出来る。将来におけるわれわれの作戦とは大衆と中核と自衛隊、パルチザン、人民軍の統一的な配置に基く軍事行動に外ならない。

3  武器と資金について。

中核自衛隊は武装した組織であるからこれを組織すると同時にあらゆる努力を払つて武器を持ち、これを運用する技術を習得しなければならない。武装と武装行動に必要な軍事教育軍事訓練は中核自衛隊にとつて欠くことの出来ないものである。「武器の補給源は敵であるアメリカ占領軍をはじめ敵の武装機関から武器を奪いとるべきである、」このことは可能である、又札つきの反動警察官等を襲い武器を奪うこともできる、われわれはこれを行わなければならない。しかし武器は敵の使用している近代的なものだけではない、大衆の持つている刀や工作道具農具も武器となり得るしまた竹棒や簡単につくることのできる武器も使用できる、従つてまず最初は手当り次第可能なもので武装することである、その上で一方においては武器を奪い取ると共に他方においてわれわれの武器を製作することである。特に敵を襲撃するために必要な輸送用パンク針、手榴弾、爆破装置等の簡単なものは、直ちに製作することが出来る。

「武器についで中核自衛隊は資金を必要とする、これもアメリカ占領軍から奪いとることが原則である」既に佐世保や横田の基地では労働者がいろんな形で真鍮砲金など敵の軍需品を破壊して持出して売つている、佐世保ではそのためトラツク隊まで組織されている、これと軍事行動に基く大衆の支持による寄付が中核自衛隊の資金源である。

惨虐な占領軍に対する襲撃には機関銃は有力な武器であるが団体交渉に機関銃を持出すことは馬鹿げたことである。この場合にはむしろ労働者や農民が用いる用具を全員が持つことの方がはるかに有力な武器となる。またこれに干渉し弾圧しようとする警察官の来襲に対しては輸送車をとめるパンク針やこん棒、条件によつては手榴弾が武器である。従つて中核自衛隊は将来の軍事行動に備えて軍事行動を強めるためにあらゆる武器を準備しそれを使用する教育と訓練を行わなければならないがこれを用いる場合には大衆の力を強める立場から条件に応じて運用しなければならない。この武器による行動発展が大衆斗争を一層発展させ統一戦線を達成する力となるのである。

4  志気と政治教育。

総ての軍隊は志気を必要とする。志気は武器と共に軍隊の主要な要素である。志気の基礎は隊員の階級的自覚である、われわれの軍事行動は民族的階級的対立を解決するための手段であり階級斗争である、階級的世界観に基く行動のみがわれわれの勝利を保証し勝利の道を教え勝利の手段を導き出す。この階級関係の理解と勝利の確信があつてのみ真に勇気ある英雄的行動を行うことができる。中核自衛隊は色々な要素や傾向を持つ者を組織し、これを一つの目的に向けて団結させ、志気を強めるためには隊員の政治教育が必要である、政治委員はこの教育のために積極的に活動し、その責任を負わなければならない。

5  軍事行動と大衆行動。

中核自衛隊は組織と同時に行動を開始しなければならない。一切の問題はこの行動の中で解決すべきである。行動は最初大衆の要求と結合した小さな行動から開始され次第に大きな行動へ発展して行く、例えば職場の抵抗自衛斗争と結合して一層大きな軍需品生産のサボや破壊を行つたり或は農民の山林原野解放斗争を守り敵に対する直接行動を行うなど大衆行動と結合した行動から出発する、そうして大衆斗争の発展と大衆の支持と信頼を基礎にして行動の内容を高め民族解放民主統一戦線のため独自的な軍事行動へ発展して行く。

6  遊撃戦術について。

中核自衛隊の軍事行動は大衆斗争の中から生れ行動の拡大と兵に一層軍事的な形に発展する、例えば職場における軍需品の破壊や軍需倉庫の爆発から敵の行動を待ち伏せてこれを襲撃したり、或は敵を窮地に引き入れて包囲し、一斎射撃を加える等単純なものから複雑なものまで無数の行動が行われる、しかしこの中には共通の一つの特徴がある、それは常に味方が攻撃に出て守勢に立たないことである、しかも攻撃は敵の正面から対峙して斗うのではなく敵の弱点や透間を奇襲し、これに打撃を与え攻撃の後には誰の攻撃か分らないようにすることである、この法則こそわれわれが遊撃戦術と呼んでいる。

遊撃戦術と戦略との関係については既に「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」にのべられている。われわれは今戦略的には防禦戦段階にある、この段階の斗争は強大な敵の軍事力の弱点を破壊し味方の軍事力を蓄えるように行われる、これを繰返すことによつて敵と味方の軍事的な力の比重を変えることがこの段階の軍事的な目的である。「われわれはこの力の比重を変えることによつてはじめて防禦戦の段階から攻撃戦の段階に入ることが出来るのである、これが日本の革命戦争におけるわれわれの戦略である、遊撃戦術はこの戦略に基く防禦戦の勝利の戦術である。従つて現在の段階における中核自衛隊における軍事行動は統一戦線を目指す大衆斗争を基礎にした遊撃戦術に外ならない。

7  中核自衛隊の遊撃戦術を効果的にして勝利するためには敵の弱点や周囲の条件を調査することが必要である。次のような点は系統的に調査しておくことが必要である。

一、敵の所在地、兵員数、武装の種類と数

二、敵の部隊の配置及びその企図

三、兵站、倉庫の所在地、弾薬や補給の状態と守備力

四、地形、道路

五、敵の志気、大衆の敵に対する感情、反動分子及び反動組織

六、進歩分子及び進歩的な組織の状態、負傷者の待避及び療養の場所

中核自衛隊はこれ等の調査を基礎にして敵の配置の弱点や行動移送輸送等によつて生れる力の分散と弱点を攻撃するのである、この攻撃のためには具体的な作戦計画を立てなければならない。

軍需品の生産の破壊や倉庫、兵器、施設等を爆破する場合には隊員の持場と役割をきめ、最後まで秘密が保たれるように計画する、敵の部隊を襲撃する場合には襲撃の場所時間、味方の配置と役割武器、合図等を決定する。襲撃の場所は地形と大衆の状態を基礎にして奇襲によつて敵と味方の差が最も大きくなりしかも味方の退路が秘匿されるように選ばれる。作戦計画に基いて行動が開始されたならば全勢力を尽して斗い一定の勝利を得たら直ちに引き揚げることが必要である。形勢が不利な場合には早期に退却しなければならない。実践の中で経験と軍事科学を統一するならばわれわれが必要とする作戦上の技術に必ず解決され部隊の軍事行動は急速に成長するのである。

「従つて中核自衛隊にとつて最も必要なことは遊撃戦術の原則によつて軍事行動を行うことである」敵を恐れず敵から離れず断乎たる攻撃を続けることによつてのみ中核自衛隊は前進し、軍事行動は発展し勝利することができる。この勝利はまた民族解放、民主統一戦線を達成する力となり全体の革命を前進させるのである。

三、国際的連帯性を強化し第四波ゼネストを更に全国民的夏季斗争へ

1  破防法粉砕の全国民斗争はアメリカ帝国主義者どもの侵略政策の犠牲となつて苦しんでいる日本国民にはかり知れない勇気と確信を与えたばかりでなく、フランス、イタリヤ、西ドイツ等同じアメリカ帝国主義者どもの侵略政策と斗う諸国民を激励した。

一方国際経済会議がモスクワで開かれ、北京協定が結ばれ、ソ同盟を先頭とする国際的平和擁護斗争はその形態は各国によつてそれぞれ異つているが全体として大きく前進しアメリカ帝国主義者どもは世界からのみでなくその内部からも弧立してきた。

2  破防法粉砕斗争の中で日本労働者階級は大きく前進した、それは一つには労働者階級をはじめ日本国民を苦しめその生活を破滅に追い込んでいる敵がアメリカ帝国主義者とその手先売国吉田政府であり、彼等が新しく強化してきた日米合同委員会を頂点とする占領制度を打破することなしには生活を守ることができないことを理解した結果である、このことは日本共産党の示した日本国民を解放する新綱領が日本国民の中に急速に侵透したことを示している。

3  われわれの任務は第四波ゼネストによる大衆の盛りあがりを更に拡大し、民族解放民主統一戦線に国民を結集して行くことである。

4  日本共産党の新綱領は、「当面する日本革命は平和的に出来ないことを示している。」全国民はメーデーをはじめあらゆる斗いの中でこのことを身を以つて理解しはじめている、「議会主義を固執する京大滝川教授ははつきり敵とつながることを暴露され、実力行動を否定する同大田畑学長は独り学生から浮びあがつてしまつた」彼等の日和見と裏切りをよそにあらゆる階層は日本民族を解放し、平和を建設するには全国民が武装し、アメリカ帝国主義と売国吉田の武力を打ち倒し、彼等を追い払つてしまう以外に道はないことを知り始めた。いくたの職場、農村、村落学校で斗われている抵抗斗争は、はつきりとこのことを示している。われわれの任務はあらゆる職場に村村に学校に部落に実力で斗う組織をつくることである。最早やかかる抵抗自衛組織なしには民族解放の斗いを一歩も前進させることは出来なし賃上斗争すら行うことは出来ない。武装した抵抗自衛組織をあらゆるところに建設することこそ現在における最も重要な任務である。

第三、京都のハタ復刊第二号によつて表明せられた日本共産党の主張と被告人等の認識

一、前掲京都のハタ復刊第二号に掲げられている三つの文書を綜合要約すると、日本共産党の次のような主張が認められる。

1  日本の国民を現在の奴隷状態から救い人間らしい自由と生活を斗いとるには、日本の支配機構であるアメリカ帝国主義者の占領制度(日米安全保障条約によつて延長せられた機構を含む)を撤廃し反動的吉田政府を打倒して民族解放民主革命を達成しなければならない。そのためには大衆を民族解放民主統一戦線に結集しなければならないが、新綱領は当面する日本の革命は平和的に出来ないことを示している(前掲第二の一、1、7、9、三、2乃至4)。

2  民族解放民主革命を達成するためには敵に対抗することの出来る武装力が必要であるから速に軍事組織をつくり武装の準備と行動を開始しなければならない。現在の基本的軍事組織は中核自衛隊であるが中核自衛隊の任務は国民が武器をとつて自らを守り敵を攻撃する一切の準備と行動を組織することである(前掲第二の一、1乃至10二、1乃至5三、4)。

3  この革命斗争においてわれわれは現在(一九五二年一月)戦略的には防禦戦の段階にあるから遊撃戦術によつて軍事行動を発展させ最後の斗争形態においては労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これと結合した労働者階級の武装蜂起によつて敵の支配を地域的に麻痺させ敵の権力を打ち倒さなければならない(前掲第二の一、4、5二、6、7)。

4  従つて民族解放民主革命は日本共産党が日本国憲法を否認し労働者階級等の武装蜂起によつて日本領土の一部を占拠し国会を通ぜずに国会制度や内閣制度等日本国憲法の定めた政治的基本組織を改変して新しい政府をつくることを究極の目的とした武力方式の革命である(前掲第二の一乃至三就中一、4、5、9三、3、4)。

5  武力方式によつて民族解放民主革命を実現することは正当であり且つ必要である(前掲第二の一1、6、7、9、10三、4)。

二、被告人等の認識

前掲被告人両名の司法警察員及び検察官に対する各供述調書及びそれによつて認められる被告人両名の日本共産党員としての経歴、並びに後記第四の日本共産党の活動方針、活動状況を綜合すると被告人菅原は本件犯行当時京都のハタ復刊第一、二号を読み同第二号が前掲のような内容文書であることを了知し、被告人八住は犯行当時京都のハタ復刊第一、二号を見てその内容を推知してそれぞれこれを頒布した事実を認めることが出来る。

第四、内乱の目的

一、刑法第七七条所定の内乱とは政府を顛覆し又は邦土を潜窃しその他朝憲を紊乱することを目的として暴動をなす場合を言い政府の顛覆とは行政組織の中枢である内閣制度を不法に破壊することであり、朝憲紊乱とは国家の政治的基本組織を不法に破壊することであつて日本憲法の下においては憲法に規定されている国会制度、天皇制、内閣制度、裁判制度等国家の政治的基本組織を憲法の許容しない手段方法によつて変革することである。暴動とは多数人が結合して暴行脅迫を行いその結果として少くとも一地方の安寧秩序を乱す程度に達する場合を言うのである。(大審院判例昭和一〇年一〇月二四日参照)従つて日本共産党の主張する前記第三の一、1乃至5の事項を内容として掲載した京都のハタ復刊第二号は検察官の主張する通り内乱罪実行の正当性及び必要性を主張する文書であると観なければならない。しかし破壊活動防止法第三八条第二項第二号の犯罪が成立するためには内乱罪実行の正当性又は必要性を主張する文書であることを認識してこれを頒布することだけでは足りない。内乱罪を実行させることを目的としてその文書を頒布した事実が認められなければならない。それ故集団暴動行為があつてもこれに因り直接に朝憲紊乱の事態を惹起することを目的とするのではなく、これを縁由として新に発生する他の暴動に因り朝憲を紊乱する事態の現出を期すような場合はこれを以て朝憲を紊乱することを目的として集団暴動を行つたと称することは出来ない。(昭和一〇年一〇月二四日大審院判例)「本件文書は日本共産党京都府委員会が同党員及び同調者に発表し指示した革命の性格と戦術を記述した文書であるが日本共産党規約(証拠=日本共産党規約草案検乙第一〇五号)及び長野地方裁判所諏訪支部の被告人金原厚外三名に対する爆発物取締法違反事件の第二〇回公判調書中、証人山辺健太郎供述調書によると、日本共産党の組織構成と規律の原則は民主的中央集権制であるといわれているが、同党の基本組織は細胞(構成員三名以上)であつて、その機関は細胞会議と細胞委員会である。その上級機関は順次細胞群党会議と細胞群委員会市及び地区党会議と市及び地区委員会府県党会議と府県委員会地方党会議と地方委員会全国党大会と中央委員会統制委員会等である。全国党大会は党の最高機関であつて地方及び府県の組織から選ばれた代議員、中央委員同候補者、統制委員によつて構成せられ中央委員会によつて招集せられるが、三年に一回は開かれなければならない、全国党大会を開くことが出来ない場合に、全国協議会が開かれる。党規律として党員個人は組織に従い、小数は多数に従う、決定するまでは民主的に討論し多数を以て決定した後は全員が決定に従つて迅速確実にこれを実行しなければならない、下級は上級に従い全党は中央に従わなければならないことを定めている。

従つて被告人両名が内乱を実行させる目的を以て本件文書を頒布した事実が認められるためには先ず日本共産党が内乱罪を実行させることを企図し、同党京都府委員会がその目的を以て本件文書を発行し被告人等にこれを頒布させた事実が認められなければならない、被告人等が内乱罪実行の正当性必要性を主張した文書を頒布した事実だけで直に被告人等が内乱罪を実行させる目的を以てこれを頒布したと推断することは適当ではない。

二、日本共産党の戦後における活動方針

1  昭和二七(一九五二)年七月一五日、日本共産党創立三〇周年を迎えるに当つて、同党機関紙アカハタに掲載せられた同党徳田書記長の紀念論文(証拠=検乙第九〇号一九五二年七月一五日発行アカハタ)に日本共産党の戦後の活動方針及び活動状況について次のとおり述べている。

日本共産党は戦後一九四五年一〇月一〇日、釈放された党員によつて党活動を展開し、天皇制の廃止寄生地主の土地没収及び農民への無償配布独占資本に対する人民管理の確立、人民民主主義共和国を要求した、その結果党に対し反動勢力は激しく攻撃をしたばかりではなく社会民主主義者も亦資本家と共同して攻撃したが党は労働者階級の殆ど全斗争を指導し労働者階級の生産管理を広汎にうち立てるために活動して成功をおさめた。

一九四七年二月二日各種産業部門の二、〇〇〇、〇〇〇の労働者がゼネストを宣言することを決定したところ、マツクアーサー司令部は同年一月三一日共産主義者の指導的役割が大きくなり、労働者の生産管理が益々大規模に斗争を発展させつつあるのを看てゼネスト禁止の命令を発した、次いで同年五月アメリカ帝国主義者はアチソン声明によつて完全に反共的態度を明にした。その後党は一切の努力を党の組織と各種大衆組織の間の影響を強めることに集中し、大衆の日々の要求とその利益を擁護する斗争をおこなつた結果党の勢力は著しく増大し、一九四九年一月衆議院選挙で吉田政府とアメリカ帝国主義者の野獣的な弾圧にもかかわらず三、〇〇〇、〇〇〇の投票を獲得し、三五の議席を得た。

しかしこれらの成功と共にこの期中に日和見主義の二つの型が現れてきた、一つは一九四九年春第一五回中央委員会に表明された。その主張者はアメリカ占領制度の反動的本質を過少評価し、国会を通して平和的手段による革命の勝利の可能性があると主張した、日和見主義の他の型は一九四九年九月に暴露された。その擁護者は日本における権力が全部、そして完全に米帝の手中にあり吉田政府とその中央および地方の支配機構は米帝の単なる道具に過ぎないと主張した、その結果彼等は吉田政府に対する斗争には何等言及せず党の当面の主要な任務はただ米帝占領軍との斗争のみにあると主張した、これらの日和見主義者は党のすべての努力が米帝に対する斗争の任務を大衆化し大衆を直接米帝撤退の斗争に立ち上らせることに集中されねばならぬと要求した、党内の右翼日和見主義は党内斗争の結果克服された、「恒久平和のために人民民主主義のために」及び「人民日報」に発表せられた日本の情勢を鋭く分析した論説はこの点で党にとつては大きな援助となつたのである。一九五〇年一月一八日に開かれた第一八回中央委員会では、党内の緊急な任務は米帝の占領支配を終結させ吉田政府に代表せられる国内反動勢力を打倒するための斗争にあると全員一致した、しかしながらこれらの決議は日本の現情勢の評価を完全に明確にすることが出来ず主要な革命行動を決定することが出来なかつた、党は左翼日和見主義動揺分子になやまされ、そして間もなくすべてこれらの動揺分子を含むトロツキストによつて指導された分派の形成を見るに至つたのである、党は党内の見解の相違を一掃し党の発展のため新しい局面を打開することを助けるような新しい綱領を作成する必要に直面した。

わが党の指導が明確を欠いていた主な問題は戦後日本が帝国主義国であるのか、それとも植民地的従属国になつてしまつたのかという問題であつた。帝の指導は日本がその発展を妨げられているが戦前と同じく依然として軍国主義的帝国主義国家であるという見解を支持していた。なる程アメリカの占領の結果として日本が従属的地位に落ち込み占領制度からの解放が重要な課題であることを党の指導が指摘していたことは事実である。しかし党の指導は革命の性格を同志スターリンによつてその原則がはつきりと確立された植民地的従属国における革命として明快に定義づけることは出来なかつた。共産党の指導は民族解放の事業を押し進め現在の条件のもとにおいては民族資本家も解放斗争における積極的要素の一つになることが出来るということを感じていた、われわれはこの問題にかなり力を注いでいたが完全な明瞭性を打ち立てることが出来なかつた。新綱領はこの漠然さを拭い去り、来るべき日本の革命の性格を従属国における革命、即ち民族解放民主革命と定義したところにある。

戦後日本共産党は大規模な合法活動を展開しこれを基礎として大衆党となり発展の巨歩を進めた、しかし敵の悪辣な攻撃と挑発に立ち向いより以上の党の発展を確保するために、われわれは必要な行動を実行しうるあたらしい組織体制を必要とするに至つた、この新しい戦術に切り替えるために党は「人民の信頼のもとに斗え」というスローガンを掲げた、かくして党は人民の強大な力に依拠する組織を用意することが出来た、党の指導の下に大衆は短時日のうちに敵の攻撃をはね返す「抵抗組織の網の目」をつくりあげることが出来た。

一九五〇年以来党内の反対グループを操りつつ党を粉砕するためにあらゆる努力を払つた米帝と日本反動の企をくじくことが出来たのは、正にこの新しい戦術を採用したためであつた。この戦術はまた党のより以上の拡大と強化を可能にした。米占領当局と吉田反動政府は(一九五一年六月六日)占領制度の諸条件を利用して党中央委員及び機関紙アカハタの指導メンバーを公職から追放した。彼等はまた労働組合と最も積極的な民主的諸団体を追放し党中央機関紙アカハタを含む二、〇〇〇の進歩的新聞雑誌を追放しその印刷所を封印した。それにもかかわらず革命諸勢力は拡大し強化してきている、党の目的を明確にした新綱領採用の結果全党はさらに積極的な活動を展開している。

一九五一年末から一九五二年五月にかけて労働組合は幾多の大ストライキを斗い、一、五〇〇、〇〇〇から四、〇〇〇、〇〇〇の人民を叫合したデモンストレーシヨンを組織したからして労働組合はフアツシヨ政策に強力な打撃を与え敵陣営に混乱をまき起した。

新綱領の実施と共に、わが党内において反対のグループが最早やこれ以上存在するということは出来なくなつた、指導者の仕事は熱のように党員の階級的政治的訓練を行うこと、合法活動と非合法活動との結合の技術を習得すること、依然としてわれわれの仕事のなかにある欠陥を排除すること、われわれの全活動の基礎を大衆の信頼を維持するということにおくということ、そして加速度的に発展している革命的斗争に立ちおくれないようにすることである。

2  前記コミンフオルム(共産党労働党情報局)の機関紙(「恒久平和と人民民主主義のために」一九五〇年第一号に掲載せられた「日本の情勢について」と題する論評について同年一月七日夜モスクワ放送は次のとおり発表した。

(前略)―現条件下において日本の勤労者は明確な行動綱領をもつ必要がある、日本の共産党の諸組織労働組合、およびあらゆる民主主義勢力は勤労者を結集し、日本における外国帝国主義者の植民地化計画と日本反動の裏切的反人民的役割を毎日にわたつて暴露しなければならぬ。彼等は日本の独立、民主的平和愛好日本の樹立、公正な講和条約の即時締結、アメリカ軍の日本よりの急速な撤退、異民族間の強固なる平和の保障のために決定的な斗争を行わねばならぬ。―中略―彼等はこの綱領を理解せず国内に生じた複雑な情勢下にあつて日本の勤労者に正しくない方向を与えている。

例えば日本の共産党の有名な活動家野坂は一九四七年一月日本共産党第二回全国協議会における報告で日本の対外対内政治情勢を分析して戦後の日本が占領下においても社会主義への平和的移行を確保するために必要なすべての条件を具えているとし、これが恰も「マルクス、レーニン主義の日本化である」と説明した。占領軍について野坂は日本共産党の目的を阻害しないばかりでなく、反対に占領軍はその使命を遂行して日本の民主化に貢献するであろうという意見を述べている。

野坂はまた「連合軍の駐屯は日本を非武装化すると同時に日本人民を全体主義的政策から解放し日本を民主化するものである、日本占領軍は日本を植民地化する意図をもつていない」とし更に日本共産党は占領下においても労働階級を政権に導くことが出来るという意見を述べている。即ち野坂は「プロレタリア党は国会内で多数の議席を占め自分達の政府をつくり官僚機関とその勢力を破壊して政治権力を手中に収める可能性が出来た、換言すれば民主的方法によつて国会を通して権力を握る可能性が出来た」と確信している。

一九四七年七月野坂は日本共産党中央委員会総会における報告で新に占領下において人民民主主義をつくることは無論可能である「占領軍はこのような政府が作られ次第日本から撤退するであろう」ときつぱり確言した。

かくの如く野坂はアメリカ占領軍が存在する場合でも、平和な方法によつて日本が直接社会主義へ移行することが可能であるというようなブルジヨア的な俗物的言を吐いている。これらの見解を野坂は以前にも言つた。例えば彼が準備し公表された共産党第五回大会宣言草案にも一九四六年五月ブルジヨア新聞たる毎日新聞に公表された論説にも野坂は次のように確言している。「人民の多数の支持に依拠し人民自身の努力に頼り党は平和な民主的な手段で資本主義よりすぐれた社会体制即ち社会主義体制をうち立てようとしている」と。

日本におけるアメリカ占領軍が恰も進歩的役割を演じ日本を社会主義への発展に導く平和革命に寄与しているかの如き野坂の見解は日本人民を混乱に陥らしめ外国帝国主義者が日本を外国帝国主義の植民地的付加物に東洋における新戦争の根源地に変えようとするのを助けるものである。外国帝国主義権力の全一的支配下にある第二次大戦後の日本において、恰も社会主義国への日本の平和的発展の条件が作られたというが如き野坂のいう日本の条件下におけるマルクス、レーニンの「日本化」なる「新」理論をつくり上げんとする彼の企図―すべてこのマルクス、レーニン主義の日本化なるものは反動の民主主義への、また帝国主義の社会主義への平和的成長転化に関するずつと以前に暴露され、労働者階級とは何等縁もゆかりもない反マルクス主義的な反社会主義的な「理論」の日本版に過ぎない。

野坂「理論」は日本帝国主義占領者美化の理論であり、アメリカ帝国主義称讃の理論であり従つてこれは日本人民大衆を偽まんする理論である。

野坂の「理論」がマルクス、レーニン主義とは縁もゆかりもない理論であることは明かである。本質上野坂の「理論」は反民主的な反社会主義的な理論である。それは日本の帝国主義占領者と日本の独立の敵にとつてのみ有利である。従つて野坂の「理論」はまた同時に反愛国的理論であり、反日本的な理論である(証拠=検甲第八九号一九五〇年一月十三日発行アカハタ登載オブザーヴア記、日本の情勢について)。

右コミンフオルム機関紙の論評について日本共産党は一九五〇年一月一九日第一八回拡大中央委員会を開き、コミンフオルム機関紙の論評の積極的意義について同委員会の意見が一致したこと、及び同志野坂参三の自己批判―コミンフオルム評論家の指摘した私の諸論文にあらわれた理論は当時の内外情勢の特殊性はあつたが、原則的に誤びゆうである。その後これが誤りであることを知つて克服に努めながら、しかも公然と明白に清算せず、またその後においても主観的意図いかんにかかわらずこれに類する見解を断片的に発表したことは誤りであることを認め、今後こうした誤びゆうをおかさないように、そして国際プロレタリアートの期待に酬いることに努力することを承認した。(証拠=検甲第九一号一九五一年一月二一日発行アカハタ)

三、新綱領採用の経過

日本共産党員山内一郎の所持していたリーダース、ダイジエストの表紙をつけた小冊子(証拠=検乙第四九号)中第五回全国協議会の一般報告として(A)第五回全国協議会を開催するにあたつて(B)当面の任務等について報告しているが、それには概ね次のような趣旨が含まれている。

(A)  第五回全国協議会を開催するに当つて

第五回全国協議会の主な任務は先に第二〇回中央委員会の決定に従つて確定しようとしている新綱領の最後的討議を完了してこれを正式に党の決定とするところである党の過ちや不十分は昨年一月コミンフオルム機関紙に発表されたオブザーバーの論文によつて明にされた。それ以来党はこれまでの誤りを克服して正しい綱領をもつためにきびしい努力を続けて来た。ところが昨年六月六日党中央委員会の解散がアメリカ占領当局と吉田政府の手によつて行われてから不幸にして党内一部の分派主義者たちの分裂行動によつて全党をあげて一致してこの努力を遂行できない状態に陥つた。

党はこの大きな試練に直面し、一方においては益々兇暴になつた内外反動勢力の弾圧と斗いながら、他方においては党の正しい努力を、内部から攪乱しようとする分派主義者たちの策動と斗いながらあくまで正しいコースを一歩も退かず推し進めなければならなかつた。党は第四回全国協議会において全党の意思を統一し分派主義者たちに断乎とした決意を示し内外反動勢力に対する斗いの方向を決定した、しかも党はこのよな斗を通じて全国民に対する責任を果すため、また全世界の人民大衆に対する責任を果すため、そしてまた同時に全党員の意思を完全に統一するために正しい綱領をもつための努力を依然として継続して来た、そのため党は内外の情勢に対する正しい分析を怠らず党のこれまでの諸活動に厳密な検討を加え、全国民の諸経験から学び更に世界の革命運動の貴重な諸経験から学ぶことにつとめて来た。

このような内外の斗の過程を通じて党中央はついに、日本共産党の当面の要求―最低綱領草案を全党に提示することが出来た、一言でいえばこの新綱領はこれまでの党内にあつたすべての矛盾と意見の相違をなくし党の発展に新しい段階を開くと共に国民の団結もまた新しい画期的な段階を開くものである、それと同時にわが民族解放民主革命の一環として正しく結合したことにある。

(B)  当面の任務。

(一)  新綱領を全国民の大衆討議によつて意思と行動の統一を強化せよ。

新綱領は占領制度の撤廃と吉田政府の打倒を要求し、独立、民主平和繁栄の新日本の建設を要求するすべての国民の共同の綱領である。

また新綱領はこの綱領を実現するために国民の最大多数を団結統一することと、その統一を実現するための方法手段を示している。

またこの統一を実現するためには、そしてまた民族解放民主革命を達成するためには決して合法主義的平和的な方法、または反動勢力との民主的な討議によつて実現されないことは明かである。

党はその国民の統一を実現するためにも一つ一つの敵のフアツシヨ的な城塞を打ち砕いて行く斗いを推し進めなければならない。民主的な討議は本質的には味方の意思を統一する武器としてこそ必要であるが、敵を説得するための手段とはならない。敵の弾圧に対抗して敵の力を弱め孤立させ分裂させて味方の強力な団結を保持し発展させる組織と行動の諸形態が創り出されなければならない。敵の力が強大で、味方の力が弱いときには、よくそれに耐え内部の力の団結と拡大を図る工作に習熟しなければならない。合法面の活動の最大活用とそれを保障し、発展させる強靱な非合法活動を全国民の間に広く大きく組織しなければならない。そしてこれらの諸活動を通して民族解放民主革命の達成に必要な革命的力量を蓄積し発展させ準備しなければならない。

われわれが新綱領を国民大衆化討議する場合には以上の二面を、即ち当面の要求とそれを実現する方法と手段の問題を結合して、それぞれの条件の下に何をなすべきかを問題にしなければならない。すべて実践的立場を離れることは綱領の正しい理解を妨げるものである。

(中略)

(六) 党。

合法非合法活動の統一を一層たかめ大衆との結合を撤底的に強化することはますます重要さを増してきている。

合法主義と非合法主義の誤りはしばしば強調されて来た。そしてこの偏向の誤りは次第に克服されている。しかし未だ情勢をあまく見る合法主義傾向からしばしば党は敵に攻撃の隙を与え相当の打撃を許している。しかし経験の教えるところによれば、党の革命的警戒心とそれに対応する組織的準備が十分にとられているならば、党は決して敵に不必要な攻撃の隙を与えるものではないことを証明している。

しかし敵は道理にかなつてやつて来るのではなく非道にやつて来るものであることを計算から外すわけにはいかない。従つてどうしても非合法活動の原則は厳重に守らなければならぬ。この原則を保障するものはそれらの組織的活動の事実についての自己、相互点検が厳重に実行されるか否かにかかつている。

非合法主義的傾向は党をセクト主義にし党と大衆との結合を離間するだけでなく党内の不規律を助長する傾向を生むことも経験の教えるところである。今日すべての党員が国民のあらゆる活動の舞台に参加するほど重要なことはない。大衆団体組織の独自的活動の強化を軽視することは口では大衆路線を論じても実践的には形式主義のセクト性の深さをばくろしている以外の何ものでもない。これは又大衆の貴重な経験を学ぼうとしない党の利己心にも根ざしている。但し党内の特別の任務を帯びているものは合法的活動はあり得ないことは言うまでもない。

四、新綱領によつて採用せられた革命の性質(戦略)と軍事方針

1  日本共産党員山内一郎が所持していたリーダース、ダイジエストの表紙付小冊子(証拠=検乙第五〇号)中一九五一年八月付、日本共産党書記長徳田球一名義、日本共産党の新綱領の基礎と題する文書によると、新綱領は全国民の利益を表わしている、なぜ革命の性質を民族解放民主革命と規定したか、なぜ綱領は農業問題と農村における封建的諸関係の一掃に重要な意義をあたえているかについて前掲第四の二、1の外尚詳細に論述している。

2  一九五五年日本共産党第一書記に就任した野坂参三は新綱領をかいつまんで次のように説明している。

わが国民が現在の苦しみと民族的屈辱から抜け出すためには、わが国民がアメリカ帝国主義の支配から完全に解放されなければならない。そのためには何よりも先ず、アメリカ帝国主義の支配の支柱である吉田政府を倒し、その代りに民族解放民主政府をつくらなければならない。この新しい国民の政府のもとでわが国は独立自由を完全に回復し世界各国と自由平等な関係を結ぶ。また政府は民主的政治制度(天皇制の廃止、リコール制をもつ一院制国会)を確立し農民に土地を与え労働者に八時間制と生活条件の根本的な改善を保障し失業者や戦争犠牲者を援助する、政府は平和産業を発展させ、また企業に援助をあたえる。このような政策を行う政府は平和的に自然に生まれるのではない。労働者と農民の団結を主力として、すべての進歩的愛国的勢力を結集し、この広大な団結の力をもつて、革命的な方法で日本の売国的反動政府を倒し、こうして革命の目的を達成しなければならない。

以上が綱領のあらましである。つまりこの綱領は当面の革命の目標と、これに到着する道筋を示したものである。いわば戦略を規定したものである。では戦術とは何か、戦略方針に基いて戦略の目標に達するために、つまり綱領を実現するために、その時々の内外の情勢と変化に応じて党はどのような行動方針をとるべきかを決めることである。綱領の中には「戦略はむろん戦術で含まれている」ものではない。

私たちも日本の将来が人が人を搾取することのない豊な社会主義に進むべき必然性をもつていることを確信している。共産党の究極の目的が資本主義を打倒して社会主義社会を実現すること(さらに共産主義社会への発展)にあることは周知の事実である。だがこの目的を達成するためには正しい革命の戦略が必要である。今われわれの前には日本の革命の性質、および戦略について、二つの異つた見解がある。一つは当面の革命を社会主義革命とみなし、社会主義政党が国会に多数を占めて社会主義政権を樹立することによつて、民族の独立と共に、社会主義を勝ちとろうとする考えである。これは社会党の人々の見解である。もう一つはこの革命を民族解放民主革命と規定し、労働者農民を主力として、アメリカの支配と鳩山政府の反動的売国的政策に苦しんでいる知識人、手工業者、小商人、中小実業家や多くの企業家、大商人などすべての進歩勢力の団結した力でまず民族の独立と民主主義的な自由を完全に勝ちとることが必要である。わが国は未だ民主主義的な自由を完全に手に入れていない。即ちブルジヨア民主主義革命の任務を達成していない。これを実現するためには、アメリカの支配を脱し民族の独立と民主主義の革命が必要である。これはわが共産党の綱領の見解である(私の回答―中央公論昭和三〇年一一月号、再び疑問に答えて―討論と共同のために―同昭和三一年二月号参照)。

3  京都のハタ復刊第二号より一ヶ月前に発行せられた前掲京都のハタ復刊第一号に日本共産党の当面の要求―新しい綱領と題する一九五一年八月付文書を掲げている。その内容は概ね次のとおりである。

A、戦後日本はアメリカ帝国主義者の隷属の下におかれ自由と独立を失い基本的人権さえ失つてしまつた現在、わが全生活―工業、農業、商業、文化等はアメリカ占領当局によつて管理せられている、彼等は占領制度を利用して日本国民を搾取し、わが国から利益を搾り取つている。

B、吉田政府は、アメリカ占領制度の精神的政治的支柱である。日本に吉田政府が存在するかぎり、アメリカ占領制度から―奴隷の状態と圧制から日本を解放することは出来ない。というのは占領当局の圧制的な略奪的なすべての命令は、日本政府の指令および国会の法律として実施せられているからである。

吉田政府は占領当局の圧制的な略奪的な本質をかくすための衡立であり、日本における精神的政治的支柱である。

吉田政府という場合、われわれは必ずしも吉田個人を意味するのではない。吉田政府という場合、われわれは反動的「自由」党と吉田政府を支持激励する日本の反民族的反動的勢力を意味するのである。この勢力は天皇、旧反動軍閥、特権官僚寄生地主、独占資本家、つまり日本国民を搾取し、あるいはこの搾取を激励する一切のものである。吉田政府はこの反動勢力の利益を代表するものである。

日本の現状は、日本のこの反動勢力の利害がアメリカ占領者の利害に反しないばかりか、逆にそれと合致するところにある、吉田自由党、反動政府をそのままにしておいて、日本を占領制度から救い出し、民族的解放を斗いとることができると思うのは全くまちがつた考え方である。占領制度をなくするためには何よりもまず、その精神的政治的支柱である吉田政府をなくさねばならない。これこそ占領制度から日本を解放する途上における第一の決定的なあゆみとなるであろう。日本の民族解放を斗いとるためには何よりもまず、吉田自由党反動政府を打倒し、その代りに新しい国民政府を樹立しなければならない。これは日本民族解放の政府となるであろう。

これは、日本のすべての進歩的な解放的勢力の利益を代表する連立政府となるであろう。

C、民族解放民主革命は避けられない。

上述のことから明かなるように、日本国民は現存する反動勢力の下で人間らしい生活と自由な空気を吸うことはできない。このことは現存する反動制度を撤廃して、その代りに新しい民族民主制度を確立しなければならないことを意味する。従つて日本にとつては大きな革命的な変革が必要である。

日本共産党は、現在の反動自由党政府に代るべき新しい民族解放民主政府が日本の対外および対内政策において次のような変革と改革を実現し、これを立法化するよう要求する。

甲 対外政策

1  民族独立と日本の主権を確保するポツダム宣言に基づく全面講和

2  占領制度撤廃と日本からの全占領軍の速かな撤廃

3  平和を維持せんとする国々をはじめすべての諸国との平和関係、および自由な経済、通商上の協力の確立

4  平和の擁護と戦争宣伝禁止

乙 国家構造

5  天皇制の廃止と民主共和国の樹立

6  リコール制をもつ一院制国会

7  以下略す

丙 農民の問題

15 寄生地主、皇室および他の大きな土地の所有者これらすべての土地を没収してこれを農民にただで分け与える

以下略す。

丁 革命の力―民族解放民主統一戦線

新しい民族解放民主政府が妨害なしに平和的な方法で自然に生れると考えたり、あるいは反動的な吉田政府が新しい民主政府に自分の地位をゆずるために抵抗しないで、自らすすんで政権をなげだすと考えるのは重大な誤りである。このような予想は根本的な誤りである。日本の解放と民主的変革を平和な手段によつて達成し得ると考えるのはまちがいである。

労働者と農民の生活を根本的に改善し、また日本を奴隷の状態から解放し国民を窮乏の状態からすくうためには反動勢力に対し、吉田政府に対し、国民の真剣な革命的斗争を組織しなければならない。即ち反動的吉田政府を打倒し、新しい民族解放民主政府のために道を開き、そして占領制度をなくする条件をつくらねばならない。これ以外に行く道はない。

この解放斗争の主力こそは日本人口の圧倒的多数を占める労働者と農民であり、それは労働者と農民の同盟である。

反動勢力と斗うために、協力する必要のある階級は労働者と農民だけではない。占領制度および吉田政府の反動的な政策によつて苦しめられている手工業者と小商人も労働者と農民の同盟に参加する、更に中小実業家とまた多くの企業家や大商人も参加する。社会的地位に拘らず、日本の進歩的な全勢力、大なり小なり進歩的な政党と進歩的な知識人の全部が参加する。これは民主主義日本の自由と繁栄のために斗うている一切の進歩的な勢力の民族解放民主統一戦線となる。日本共産党はこの民族解放民主統一戦線を速に強化し発展させることをすべての進歩的な人々特に労働者と農民に訴える。

4 前掲山内一郎の所持していたリーダース、ダイジエストの表紙付小冊子(証拠=検乙第四九号)によると前掲一九五一年一〇月三日付われわれは武装の準備と行動を開始しなければならないと題する論文に「軍事問題の論文を発表するに当つて」と題する前文のついていたことが明である。

それにはこの軍事問題についての論文はわれわれが不充分ながら行つて来た問題についての実践の発表であると共に、新しく採択された綱領に基く具体的な指針である。新しい綱領は「民族解放民主政府が妨害なしに平和的な方法で自然に生まれると考えたり、或は反動的な吉田政府が新しい民主政府に自分の地位をゆずるために抵抗しないで自ら進んで政府を投げ出すと考えるのは重大な誤りである」と述べて、国民の革命斗争を組織するように訴えている。この論文はこの点を明にしたものである。われわれは軍事問題を真剣に取り上げ、それを行動に移さなければならない。それなしに新しい綱領を実現することも、このための斗に勝利することも出来ないのである。わが党が社会民主主義者の諸党派と根本的に異る点は、この問題を取り上げ、明確な目標のもとにこれを実践する点にある。従つて全党がこの論文を新しい綱領や、第五回全国協議会の一般報告と合せて討議しこれを単なる論文として終らせることなく実践のための武器にされんことを希望すると記述している。

5 名古屋地方検察庁が被疑者川瀬甲子郎に対する政令第三二五号違反事件について差押えた速報七号一一、三〇、五全協軍事方針の実践のためにと題する文書(証拠=検乙第八五号)に次のような内容が記載せられている。

われわれの軍事方針は四全協以来の斗争の成果の上に五全協において具体的に明確に発展した。これは一切の平和革命論を実践によつて最後的に克服し軍事問題を全党のものとするための計画である。

四全協以来、われわれは全党の活動を革命的に建て直し軍事活動を強化し、国民を武装の方向に高めるために多くの努力を払つて来た。しかしながらわれわれの中に今尚根強くのこつている一切の平和革命論、合法主義経済組合的傾向は大衆の革命的昂揚にも拘らず大衆を革命的斗争に組織し軍事活動を発展させることを阻んで来た。(中略)一言で言うならば党自身が大衆の革命的昂揚に応える革命的行動的政策を持たず従つて軍事問題の意義を実践の問題として深刻に捕んでいなかつたのである。新しい綱領はその貫撤のために「国民の真剣な革命斗争を組織しなければならない」と訴えその実践の保障として、五全協は軍事方針において「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と明確に規定した。

中核自衛隊の組織は全党の任務でありそのための条件は無限である。中核自衛隊は基本的軍事組織であり、その任務は国民が武器をとつて自らを守り敵を攻撃する一切の準備と行動を組織することである。

6  前掲山内一郎の所持していた小冊子(証拠=検乙第五〇号)によると前掲一九五二年一月二三日付中核自衛隊の組織と戦術と題する文書に中核自衛隊の組織と戦術を発表するに当つてと題する前文のついていたことが明である。それには次のような趣旨が記述されている。軍事問題についての論文「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」が発表された結果、この問題についての全党の意思は統一され発展の方向は明となつた。既に大衆斗争はこの論文を指針として組織し、評価し、指導されている。この結果大衆斗争は軍事的な方向へ前進しており質的に変化している。既に下部はこの大衆斗争の発展の中から抵抗自衛斗争を基礎にした中核自衛隊が組織されている、中核自衛隊の組織と戦術はこの発展しつつある大衆の軍事行動を一層発展させると共に行動を正確にするために発展されたものである。従つてこの論文は前に発表された、われわれは武装の準備と行動を開始しなければならないに続くものであり、これを基礎にしたものである。

この論文は討議は先ず第一に、この二つの論文を統一的に理解するように行うべきである。それによつて民族解放、民主統一戦線を目指す大衆斗争の発展と軍事行動の関係を理解し、またこの軍事行動の中における中核自衛隊の性格や任務を理解することが必要である。

第二に、工場や部落や町や学校の具体的な条件の中で現在の大衆斗争を前進させ中核自衛隊を組織するための活動と中核自衛隊の行動のみが大衆斗争を発展させ、軍事行動を前進させるのである。またこれが統一戦線を結集する力となるのである。

この論文がこの二つの点を中心に討議されるならばこれは実践の指針となり、実践の発展に大きな役割を果すであろう。

7  日本共産党統制委員山辺健太郎は、長野地方裁判所諏訪支部において証人として次のように供述している。

昭和二五年日本共産党の議会主義的革命方針が国際的批判を受け外国軍の駐屯下において民主革命は不能なことが党員間に自明の理となつた。翌二六年八月第二一回中央委員会において新綱領が作成され、同年一〇月第五回全国協議会において満場一致採択された。その政策は国内の色々な階級が協力団結して国民を一番苦しめているアメリカの占領軍を撤退させ、日本民族の独立を抑えている吉田政府に代つて、反米反吉田統一政府を樹立し、ブルジヨア民主主義革命を行つて封建的遺制を一掃するということである。この民族解放民主革命は、植民地的従属国たるわが国においては、マルクス・レーニン・スターリン主義に基く全国民の武装斗争によらなければ達成できない。

8  元日本共産党札幌委員会委員佐藤直道は当裁判所において、証人として次のように陳述した。日本共産党では昭和二六年二月第四回全国協議会において正式に武装蜂起の方針を決定した。そして同年三月札幌委員会も非合法態勢をとることになつた。そして同年八月末から九月上旬にかけて、新綱領草案が出され、同年一〇月上旬頃開催された第五回全国協議会で満場一致で承認された。その際「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」という軍事方針も決定されて党中央から流されて来た。

9  以上を綜合要約すると、日本共産党は戦後日本は占領下において民主的方法により議会を通し人民民主主義革命を成就し社会主義社会へ平和的に移行する可能性があるとして平和革命の方式を採用した。然るに昭和二五(一九五〇)年一月コミンフオルムの批判を受けて自己批判を行い党内分派抗争を克服し所謂右翼日和見主義から極左冒険主義へ偏向し、昭和二六年(一九五一)二月第四回全国協議会を経て、同年八月第二一回中央委員会において内外の情勢を分析し、国民大衆の革命的昂揚に応えるためと称し、当面の要求として新綱領を起草し次いで同年一〇月第五回全国協議会において、新綱領を採択し革命の性格を民族解放民主革命と規定し、アメリカ帝国主義の支配下において平和的手段によつて革命を達成することは出来ない。革命を達成するためには民族解放民主統一戦線を結成し、武力を以てこれを強化しなければならないことを明にして武力革命の方式を採用して所謂軍事方針を決議し、われわれは武装の準備と行動を開始しなければならないと題する軍事論文を発表し、次いで昭和二七年(一九五二)一月基本的な軍事組織として中核自衛隊の組織と戦術と題する文書を発表し、その実践を促した事実を確認することが出来る。

五、新綱領発表前後における日本共産党の活動状況

1  証人工藤通夫の供述調書及び同人の検察官に対する供述調書謄本、(鉱夫第三三号三四号)(検甲第二九八号二九九号三一二号三一三号)によると同人は次のように供述している。

同人は昭和二三年日本共産党に入党し、昭和二五年一〇月一日形式的に脱党し、昭和二七年一月復党届を出したが、団体等規制令による届出をしていない。

当時秋田県下には北、山元、南、仙北、雄平の五箇所の地区委員会があつたが、同人は北部地区委員会所属小坂細胞の構成員であつた。小坂細胞の構成員は、鹿角郡小坂町新町党員丸山博方に事務所を置き同町自由労働組合員と工藤等小坂鉱業所職員等であつた。同人は同年二月頃細胞の指導部員になり、細胞の日常活動を指導したが、日常活動中最大の仕事は、細胞機関紙「鉱夫」を週一回三〇〇乃至四〇〇部発行することであつた。その記事の内容を要約すると、大半は小坂鉱山の労組の斗争を取上げて、これを革命勢力へ結集するようにせん動し、又アメリカ帝国主義吉田政府、小坂鉱業所当局の労働者に対する抑圧を攻撃するものであつた。尚小坂細胞の党員には「新しい世界」「前衛」「平和と独立」等の機関紙雑誌が配布されていた。尚その外パンフレツト「健康法」中の「新綱領」や新綱領を内容としたパンフレツト「パチンコ必勝法」を一部一五円で売り捌いたことがあつた。小坂細胞の主要な任務は二、〇〇〇人の小坂鉱山労働者の中に革命の指導的勢力を組織して行くことであつた。

復党当時革命の方式が切り替えられ中核自衛隊行動隊という秘密機関が設けられ、非合法活動を行うことが決定せられた。行動隊は武力革命に参加する隊組織であり中核自衛隊はそれを援助する隊であつて、オリオン隊は小坂細胞の中核自衛隊の別名である、中核自衛隊の任務は占領制度を除き吉田政府を倒すために武器を執つて斗うことである。

昭和二十七年三月二九日細胞キヤツプ笹淵及び細胞を指導するために派遣せられた中島健三が逮捕せられた後に派遣せられた北部地区委員石井正三は不当逮捕を憤慨し工藤に小坂鉱業所の大煙突を倒してしまう、町長の家を焼き払つてしまう、警察をやつつけてしまうと言つた。それから工藤に火焔瓶、ラムネ弾、パンク板、時限爆弾を図解した複写紙を渡し準備と研究を依頼した。同年四月五日丸山宅で細胞指導部会議を開いた後朴正守方において同人、オリオン隊員伊藤清人、中沢政七、小坂細胞指導部員豊島誠也、木谷正一、キヤツプ工藤等相談の上大衆に対し、党員は警察官の不当な弾圧と斗う勇気のあることを示すと共に、小坂鉱山の労務課長が資本家の手先となつて労務者を苦しめていることを判然と知らせるために火焔瓶を投げて建物を焼払うことを決定し、指導部がオリオン隊と共に投げることになつた。工藤はアリバイを成立させるために、労務課長宅や警察署へ火焔瓶を投付けた時に帰宅していたが、同年九月二九日に逮捕せられた。

2  証人三帰省吾の供述調書、同人の大阪地方裁判所における供述調書によると、同人は、次のように供述している。

同人は、昭和二一年日本共産党に入党した。同党大阪府軍事委員会の下部組織は泉州地区外六地区委員会であり、その下部組織は細胞群、又は細胞である。同人は昭和二五年八月大阪府委員会に呼び出され、泉州地区責任者として裏活動に従事した。当時党活動には表裏二面があつた、表は公然の活動であり、裏は非公然の活動であつて、テク(会議場を捜すこと)と機関紙を配布し購読者組織をつくる活動であつた。機関紙は主として平和と独立であつてアカハタに登載できないことを登載してあつた。同年一一月二〇日大阪府Y(大阪府委員会軍事部)の指令により泉北郡の山で人夫として働き立木の伐採に従事し、その後党中央部の指令により大阪府Yが大阪市内で発行したと思われる非合法文書「人民の兵士」「警官の友」を配布したが、前者は自衛隊員に後者は警官に配布した。昭和二六年一〇月頃北大阪地区委員長兼大阪府ビユーロー(大阪府委員会)の委員を命ぜられ、テクや機関紙配布の外細胞会議に出席していたが、当時北大阪地区の活動に表裏はなかつた。

昭和二七年三月頃大阪府Yのキリ責(大阪府委員会軍事部責任者)に転じ主として武器製作の責任者として府Y所属科学技術部の協力を得て、その製作に従事した。科学技術部では、五、六名の部員が党中央軍事部科学技術部発行の武器製作方法に関する栄養分析と題する書物により火焔瓶、ラムネ弾、手榴弾を試作し、その他薬品を取扱つていた。手榴弾については朝鮮祖防隊の責任者に鋳型製作を依頼した。同年三月一五日から二〇日間大阪府軍事委員長の命により関東多摩地方で行われた中央軍事部主催全国軍事部員の教育訓練に、私は大阪代表として参加し、党軍事方針や中核自衛隊の組織と戦術について討議した外、五、六名と共に多摩の山奥で拳銃を試射し、ラムネ弾、テルミツトを投擲した。帰阪後西のY(西日本地方)と協議の上、先に関東で習得した教育訓練を党員に実施する計画を立案中党の指示に従い、大阪における軍事基地及び軍事輸送を暴露(列車を停めて貨物を奪取すること)する斗を真剣に組織する計画に取りかかつた。

新綱領、われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない、中核自衛隊の組織と戦術等は昭和二七年三月上京前に古書目録、内外評論、国民評論等で読んだ。

同年五月三〇日斗争の計画は神戸からPXの貨物を輸送する列車を神崎川鉄橋上で停めて貨物を卸し、艀に移して奪取する方法と、大阪府竜華で米軍用貨物列車を停めて貨物を奪取する方法であつた。前者については、国鉄職員と相談し、他面地区細胞の協力を求めたが支障のため決行することが出来なかつた。後者については、国鉄職員中には列車を脱線させて田圃の中へ突込ませる方法を提案したが、それは無茶だとの意見も出たので、赤ランプで合図をして停車させることを決定したが地区細胞が反対したので結局中止した。

同年六月二五日朝鮮戦争勃発二周年記念として平和を願う大衆を北大阪に動員して前夜祭を行い吹田で示威行進を行い、その途中七一七一号列車が高槻の東方で何者かの手によつて炎上する計画をした。これは伊丹、吹田の軍事基地、軍事輸送暴露の斗の片面に過ぎなかつたが、府ビユーローが中央のYからの指令に基いて立案し、三帰が軍事部委員長から指令を受けたのである。そこで当日各地区責任者が指導して大会を開き、待かね山で前夜祭を行い、同人が隊長となつて山越をして吹田へ出る一隊約一〇〇名と石橋から電車で服部で下車する一隊が合流して、吹田操車場へデモ行進を行い軍事輸送を暴露する予定であつた。同人の一隊は吹田へ出る途中笹川良一家を襲い門内へ投石し山田村で国鉄愛労の親玉中野信太郎方を襲い雨戸等を破壊した。尚豊中から待かね山へ行く途中朝鮮人が米人ハウスへ火焔瓶を投げたが爆薬の配合に誤りがあつたので破裂しなかつたということであつた。又山田村の田圃の中で或る者は天秤棒を拾い他の者は竹槍様のものを所持することを某地区責任者が指令した。吹田で二隊が合流して居合せた米兵に投石したり、警察官の小型トラツクに投石した。又前方の者が二箇所の交番所を襲い投石や棒等で破壊した。又ピストル二挺を奪つたがこれは軍事方針に則つた行動であつた。

要するに吹田事件は朝鮮戦争を阻止するための実力斗争であつた。三帰は高槻附近で貨物列車を停め貨物を奪取して焼払うため、同年六月二三日若衆に打ち開けて濃硫酸、塩素酸加里を渡して用意を頼んだが実行することが出来なかつた。

3  証人佐藤直道の供述調書によると同人は次のように述べている。

同人は昭和二一年一一月日本共産党に入党し、昭和二五年一一月から昭和二七年一一月まで札幌委員会常任委員千歳琴似地区細胞常任委員であつた。昭和二五年十二月半合法体制がとられた。

翌昭和二六年三月完全非合法体制に入り政策は公然化したが組織は秘匿した。それは占領軍や官憲の迫害を免がれるためであつた。非合法体制後常任委員会は解放せられビユーロー組織に切り替えられた。同年二月第四回全国協議会が開かれ非合法体制を採用することを決定したが、その方針の最大なものは朝鮮戦争の問題と、日本国民は占領政策に縛られ政治経済的にも隷属国となつたから、これを解決するためには敵の権力と斗わなければならない、その方針として軍事方針を採用し、パルチザン戦法を以て斗争することであつた。軍事方針とは武装蜂起を意味するが、弱い所を狙つて実行しようというスローガン的活動方針であつた。同年一〇月に開かれた第五回全国協議会で決定せられた方針は武器を製造し蒐集し、軍事訓練を即時に実施し、権力者警察を敵として斗うことである。パルチザン戦法により武力を以て国内の弱い所を突破し、法律の行われない地域をつくり、ソ連政権を樹立することである。札幌ビユーロー内に軍事部Yを設けたが琴似千歳地区にはそれがない。札幌と同列の地区委員会だけ軍事委員会を設けた。その軍事委員会所属機構として行動を実行する中核自衛隊がつくられた。これはビユーローと別箇の行動をとつていた。

佐藤の事件は軍事方針に基き武器を作つた具体的行動の現われである。同事件は同人が軍事委員会で作つた武器中、手榴弾三個、拳銃一挺を軍事委員長から預つたことがその内容であつた。

4  証人小林誠吾の供述調書及び浦和地方裁判所の同人外数名に対する強盗殺人未遂等事件の公判調書、同事件の判決の各謄本(検甲第一六八号乃至第一七〇号第一七五号乃至一七八号)によると次のような事実が認められる。

小林誠吾は昭和二三年五月日本共産党に入党し党活動をしたが、翌二四年四月頃から党活動を止めていた。その後昭和二七年初頃から埼玉県川越地区委員長松本庫吉の指示を受け、同人の指導する川越市内青年幹部会メンバーに加わつた。メンバーには外に川越高等学校の先生や市役所総務課員外数名が参加し、同校や市庁舎内で会合し情報を交換したがそれは市民運動の一環として青年団組織を育てて武器を作るのが目的であつた。同年四、五月頃党員から球根栽培法四冊を貰つたがそれには第五回全国協議会の報告中核自衛隊の組織と戦術軍事組織の目的等の記事があつた。

同年六月一二日川越市内蓮経寺で映画祭が催された時、松本、坂井が中心になり中核自衛隊をつくり隊員が新綱領を配布したが、中核自衛隊は新綱領を具体化したものであつた。

小林、三浦、伊藤、大村外数名は同年七月二一日準備会を開き同月二八日西部独立遊撃隊を結成した。これは党上部の命令により吉田内閣打倒、米軍撤退の斗争と権力機関に対する斗争を行うことを目的とし中核自衛隊よりも過激な青年層を以て組織し火焔瓶等の武器を以て斗争しこれを押し進めて革命の要素を作ることが究極の目的であつた。

三浦は西部独立遊撃隊と同様の目的を以て結成された武蔵野第一独立遊撃隊の隊長外数名と相談の上同月二九日午後一〇時三九分頃埼玉県入間郡福原村助役関口道之助には公私に亙り非行があるとし制裁を加えるため同家に赴き雨戸を目がけて火焔瓶を投付けて雨戸の一部を焼いた。

小林、三浦その他西部独立遊撃隊員数名は活動資金獲得のため米国駐留軍人の乗用車を襲い金銭を強取することを計画し、先ず進行中の自動車を停車させることを試すため同月三〇日午後八時三〇分頃所沢市豊岡街道において進行中の米国駐留軍人の乗用車を阻つて拳大の石を投げつけて暴行したのを初めとし翌三一日午後九時頃前同所において進行中の青木忠の乗車する自動車に米国駐留軍人が乗車していると誤信し火焔瓶数個を投げつけ青木に全治一週間を要する火傷を負わせ、翌八月一日午後一〇時頃同県北足立郡朝霞志木間県道において火焔瓶三本を携帯して待期した。

尚小林、三浦その他前記遊撃隊員数名は同年八月六日衆議院議員で資産家である同県比企郡大河村字腰越に居住している横川重次が多額の選挙運動資金を準備しているという噂を聴き党の資金カンパ等に充てるため同家を襲い金銭を強取することを計画し翌七日午後九時二〇分頃同家に赴き同人に面会を求め、一、〇〇〇、〇〇〇円を要求し、日本刀、登山用ナイフ等を以て斬りつけて重傷を加えた外家人を縛り猿轡をはめる等の暴行を加えたが所期の目的を遂げなかつた。

5  昭和二六年一二月二六日午後一一時頃東京都北部地区軍事委員長矢島勇同軍事委員会構成員高見時治細胞責任者藤塚善男、前野円静は外数名と共謀の上東京都練馬区旭町所在小田原製紙株式会社東京工場従業員第一組合の労働争議中同組合員が第二組合員に暴行傷害を加えた事件に関与した所轄巡査駐在所勤務巡査印藤勝郎の態度に反感を抱き同巡査を附近の路上へ誘い出し古鉄管、丸棒等を以て同巡査を乱打し因つて同巡査をして脳損傷のため間もなく死亡するに至らせ尚右暴行中共犯者一名は単独で同巡査の携えていた拳銃一挺を奪取した事件について東京地方裁判所において有罪の判決を受け該判決は確定している(検甲一八〇号乃至一八八号起訴状謄本及び判決謄本)。

6  昭和二七年二月一日頃から長野県南佐久郡田口村附近に日本共産党と関係があると推認される住所氏名不詳の朝鮮人らしい者十数名が分宿し、同月三日早朝から党員渡辺綱雄方綿工場内で訓練をなし、その後党員羽毛田正直方で終日協議を続けた。当時団体等規制令違反被疑事実について党員の所在捜査中の巡査が右集会者を庇護していた党員等に職務質問をしたところ同人等は右巡査に暴行を加えた事件について長野地方裁判所上田支部において有罪無罪の判決を受けた(検甲第二四七号乃至二四九号起訴状謄本判決謄本)。

7  同年二月二一日佐藤義隆外数名は東京都大田区糀谷四丁目二二番地先から進発した約二〇〇名の無許可集団示威行進に参加し或はこれを指導し、これを解散させつつあつた警察職員等に暴行傷害を加え、或はその際蒲田警察署北糀谷巡査派出所を襲撃し多衆の威力を示して暴行脅迫を加えた嫌疑があるとして東京地方裁判所に起訴せられた(検甲第二七七号乃至第二八四号起訴状謄本)。

8  同年四月六日午前一一時三〇分頃宇佐美静治外数名は同夜三鷹市法泉寺において開催せられる予定の、三多摩労農大会の警戒にあたるため警察官が出動し警備の手薄となるのに乗じ同市警察署別館に火焔瓶を投げ付けて放火したが同庁舎を全焼するに到らなかつた事件について有罪判決を受け確定した(検甲二八六号乃至二九三号起訴状謄本及び判決謄本)。

9  同年五月七日豊橋市町畑町所在愛知大学々生天野拓夫外数名は同大学々生及び学外者二名を含む一四名を以て中核自衛隊四隊を組織し学内の情報蒐集のため学内に出入する者を逮捕し多衆の威力を示し暴行脅迫を加えることを企図し、同夜午後一一時過ぎ同大学北門附近を警邏中窃盗犯人を追跡し学内運動場等に差しかかつた制服の同市警察署巡査二名を発見したので共謀の上両巡査が右職務執行中であることを表明したのに拘らず両巡査を捉え多衆の威力を示して暴行脅迫を加え更に隊員以外の寮生数十名の学生と共に暴行脅迫を加えて警察手帳拳銃警棒を取り上げ寮内に拉致して不法逮捕して謝罪文等を強要し以て両巡査の職務の執行を妨害した嫌疑を受け同年六月九日名古屋地方裁判所に起訴せられた(検甲第二三三号第二三四号起訴状謄本及び証明書)。

10  同年五月一日午前一〇時過東京都における第二三回メーデー中央大会は十数万人参会の下に明治神宮外苑において開かれ、同日午後零時半頃終了し大会参加者は五群に分れて集団示威行進に移つた。その際日本共産党及び一部過激な学生、朝鮮人及び自由労務者等は参会者に対し「人民広場へ行こう」「人民広場を実力でかちとれ」等と呼びかけ右日本共産党員学生朝鮮人自由労務者を主体とする数千人は日比谷公園を解散地とする中部及び南部の行進に加わりそのうち中部を行進した一隊約三、〇〇〇人は同日午後二時頃同公園内に到達したが解散せずスクラムを組み同公園より皇居外苑広場に向つて無許可示威行進を行い日比谷交叉点から在日米軍司令部附近に向い、「アメ公帰れ」等と怒号し同所に駐車中の外国人自動車十数台に投石し、或はプラカード等を以て窓硝子を破壊し、更に在日米軍司令部にも投石し馬場先門入口附近を警備中の警備隊に「ポリ公を叩きのめせ」「打ち殺せ」等と叫び、或はこれに投石して馬場先門より皇居外苑広場に突入し忽ち二重橋前に殺到して気勢を挙げた。この時同広場を警備中の警視庁警察職員の一隊がこれを解散させようとしたが応ぜず右警察職員に対し石塊、木片を飛ばし、或はプラカードの柄、こん棒等を振つて殴りかかり警察職員を桜田濠に突き落して傷害を加え或いは祝田町警備派出所建物を押し到し、或は附近を通行中の警視庁及び外国人等の自動車に投石する等の暴行を加えた。中部コースを行進した残部の一隊約二、〇〇〇人は桜田門から祝田橋に向い同所を警備中の警察職員をこん棒等を以て殴り押し、或は突いて暴行を加えて皇居外宛広場に突入した。他方南部コースを行進した日本共産党員朝鮮人自由労務者数千人の一群は同日午後三時頃祝田橋より同広場に突入して先に乱入した暴徒と合流した。これ等の暴徒は同日午後六時過まで同所及びその周辺において警察職員に対し石塊や空瓶等を投げ或はこん棒等を以て乱打し警察職員、米軍人を凱旋濠に突き落して投石する等暴行して傷害を加え、更に日比谷公園附近道路に駐車中の警視庁及び外国人等の自動車十数台を転覆破壊し又はこれに火を放つて焼き或は日比谷公園有楽門巡査派出所を襲撃して窓硝子多数を破壊し、或は馬場先門より東京都庁に至る路上において外国人の自動車十数台の窓硝子を破壊する等暴行をほしいままにし、その間数時間に亙り同地域の電車自動車等の交通をも杜絶阻害して附近一帯の静謐を害して騒擾罪を犯し或はその卒先助勢罪を犯した嫌疑があるとして日本共産党員学生等百七十数名が同月下旬東京地方裁判所に起訴せられ同裁判所において審理を続けている事実は公知の事実である。

11  同年五月三日午後七時頃、東京都板橋区板橋七丁目日本化工株式会社寮庭において「五月三日記念日」として労働者学生等約三〇〇名が参集して破防法粉砕総けつ起大会を開催した際、小鹿原誠一は司会者となり閉会後参加者を引卒して集団行進を行い板橋警察署岩之上巡査派出所前において他の参加者と共謀の上警察職員及び同派出所に石塊、棒、硫酸瓶を投げつけ武器を棄てろ、武装を解除せよと叫んで気勢を添え以て警察職員の職務の執行を妨害すると共に同人等に傷害を加えた事件についてその後有罪の判決を受けた(検甲第二六四号乃至二七六号起訴状謄本及び判決謄本)。

12  同年六月五日宇部市西区万来区解放救援会事務所において在日本朝鮮人民主愛国同盟山口県本部結成大会に参集した朝鮮人数十名が示威行進を行い宇部興産株式会社宇部窒素工場内に不法に侵入し警備員に暴行傷害を加え前記事務所に引揚げた際朝鮮人河仁沢外一八名は他の朝鮮人等と共謀の上右集団暴行犯人を逮捕しようとした警察職員に石、瓶、煉瓦等を投付け或は鉄棒等で殴打して公務執行を妨害し警察職員五〇名に対し重軽傷を負わせた事件について山口地方裁判所において有罪判決を受け該判決は確定した(検甲第一八九号乃至二二六号起訴状謄本及び判決謄本)。

13  同年六月二四日午前二時頃盧承達外数名は共謀の上大阪府枚方市近畿財務局枚方出張所内甲斐田地区第四搾出工場において同工場を爆破する目的を以て時限爆弾を装置した嫌疑を受け大阪地方裁判所に起訴せられた(検甲第二五四号起訴状謄本)。

14  同年六月二五日午前二時頃神宏、丁永暢は外多数と共謀の上大阪府枚方市内小松正義方居宅及び車庫に火焔瓶数個を投入し発火させ、同家襖の一部及び自動車の一部を焼燬した事件について嫌疑を受け大阪地方裁判所に起訴せられた(検甲第二五二号二五三号起訴状謄本)。

15  同年六月二五日午後一〇時頃平田虎雄外三名は東京都新宿区歌舞伎町スポーツセンター内において国際平和デーの集会に参集した群衆数千名が同区角筈一丁目国鉄新宿駅本屋正面前広場付近において行つた無許可の集団示威運動に加わつた際これを制止し解散させていた警察職員に投石し、或は火焔瓶一本を投げつけてその職務の執行を妨害した事件について東京地方裁判所において有罪判決を受けた(検甲第二五八号乃至二六三号起訴状謄本及び判決謄本)。

16  同年七月七日日本共産党名古屋市委員会軍事委員芝野一三、名古屋市祖国防衛委員会キヤツプ及び日本共産党名古屋委員会軍事委員泰金杏、愛知県祖国防衛委員会委員李寛承外数名は同市内大須球場で帆足計宮腰喜助の歓迎報告大会を開催した際学生朝鮮人自由労働者等数百名に火焔瓶、手榴弾、竹槍、小石、医療品等を携帯して参集させ同日午後九時頃右同様の武器を携帯した朝鮮人別動隊数十名をして同市鶴舞公園内に駐車中の米駐留軍用ジープ一台、乗用車四台に火焔瓶十数個を投げ付けて爆発燃焼させ他の一隊十数名をして同市東税務署に火焔瓶四個を投げつけて爆発燃焼させて警察警備力の分散を計つた上同日午後一一時大会終了後「三、五〇〇の警官が球場を取り巻いている。中署へ行けアメリカ村へ行け」等と絶叫してこれに呼応する千数百名を暴徒と化し北鮮旗、赤旗、莚旗、竹槍、火焔瓶、手榴弾、小石、唐辛子等を携えて行進させ同市中区岩井通四丁目附近路上において市民、警察職員、警察放送車、停車中の乗用車二台及び路上等に火焔瓶二〇〇個を投げて爆発させ右乗用車と路上一帯を炎上させると共に石、瓦等を投げさせた外、消防自動車や付近の交通巡査詰所にも火焔瓶数個を投げて爆発させ同日午後十二時頃まで多衆聚合して暴行脅迫し、市民及び警察職員等数十名に傷害を与え大須一帯の静謐を害して騒擾罪を犯した嫌疑を受け名古屋地方裁判所に起訴せられた(検甲第二三五号乃至二四四号起訴状謄本)。

17  被告人菅原実は昭和二七年九月三〇日検察官に対し次の通り陳述している。

同人は戦後日本共産党に入党し昭和二四年頃から安井細胞に属しその後二年間安井花園細胞のキヤツプをして昭和二六年頃八住梧樓にキヤツプを譲つた。同被告人が激烈な党活動をしたのは昭和二七年以後である。

昭和二七年一月頃関西グループ会議で軍事組織にもつとも適しているのは買出隊であるからこれを中核自衛隊に組織せよとの命令があつたので同被告人は買出隊に加わり組織に努力し、中核自衛隊を組織し同年六月頃京都府軍事委員会から小隊長を命ぜられた。

同年二月二三日開催予定の再軍備反対青年婦人大会は不許可になつたが偶発的に一〇〇名位が無許可デモ行進を行い、警官隊に阻止せられて乱斗となつた際同被告人は警官を倒して殴つた嫌疑を受け起訴せられ審理中である。この事件で箔がついたということで八住に代つて再度細胞のキヤツプになつた。

メーデーには日農に加わり府庁前における市警との乱斗事件、烏丸丸太町の交番所襲撃事件市庁舎前の国旗引きちぎり事件等の起つた際には直ぐ傍にいたが同被告人は暴行しなかつた。

六月初頃党員金某が来てくれと言うので金外氏名不詳の一名の朝鮮人に同行し保津峽駅で下車し二〇分ばかり山中へ入ると同行の氏名不詳の朝鮮人が風呂敷包から火焔瓶二本を出して投付けて発火させた。それを見て同被告人は朝鮮人が火焔瓶の実験に来たことが判つた。その後同月九日晩花園駅裏へ行くと朝鮮人の新制中学生が明日島津へ行くから来ないかと言つた。翌日旧二条弁天湯から出ると花園駅裏に住んでいる大山某が今日島津で面白かつたぞと言つた。翌日新聞で島津三条工場前でパトロール・カーに火焔瓶を投付けた記事を読んで彼等の言つたことが判つた。

六月一七日破防法反対ストにも参加し東本願寺前で学生の団体が巡査を追い駈け拳銃を奪い暴行を加えたのを見た、同月二五日朝鮮動乱勃発記念日には無許可でデモ行進を行うため朱雀に集つたところを堀川警察署員に武器や北鮮旗をとられたのでこれを取り返すため堀川警察署へ行つたが警戒厳重のためその目的を達しなかつた。

七月一三日一四日に催された日共三〇周年記念大会斗争の際には右京中核自衛隊長を命ぜられ火焔瓶等を持つて堀川警察署襲撃の一隊に加わつたが警戒厳重のため目的を達しなかつた。

同被告人は共産主義の深い理論はよく判らないが若いので刺戟を求めスリルを味うために党活動をしていた。日本はアメリカの奴隷国の状態にあるからこの侭ではフイリツピンと同様になつて死ぬまで苦労をしなければならない、世界には外に共産主義国があり労働者が有利な生活をしているから日本も共産主義国家にならなければならない、党は共産主義社会実現の手段として軍事方針を決定した、これは五全協で当面の要求が決定された後党員十二、三名が集つた際に竹村某が読んで聞かせた、その趣旨は兵器を作り武力によつて現在の諸制度を倒し共産主義国家を作らねばならない、共産主義社会実現のためにはこの方針によらねばならないと謂うのである。軍事方針は球根栽培法にも京都のハタにも書いてあるが同被告人は一般大衆の力により武力革命が近く起りそうな情勢にあると判断していた。

18  以上の各証拠その他検察官提出の各証拠(検甲第四五号乃至第五〇号、甲第五三号乃至第五五号、甲第一三一号、甲第一三三号乃至第一三六号、甲第一三八号乃至第一四三号、甲第一四五号乃至第一五〇号、甲第一五二号乃至第一六一号、乙第七七号乃至第九一号、甲第二二七号乃至第二三〇号、乙第九二号、乙第一一四号乃至第一一八号)を綜合すると次のような事実が認められる。

日本共産党は、昭和二五(一九五〇)年一月コミンフオルムの所謂国際批判を容れ平和革命の方式を転換し非公然に各委員会に軍事部若くは軍事委員会を設け中央集権的組織と規律を以て非公然活動を展開し、内外評論、平和と独立、活動指針の外古書目録、球根栽培法等の偽装文書を党員及び同調者に配布して、昭和二六(一九五一)年一〇月第五回全国協議会において決議せられた、新綱領及び軍事論文等の周知撤底に努め革命の性格と戦術を明にしてその実践を促し、昭和二七(一九五二)年一月軍事組織の基本組織として中核自衛隊の組織と戦術を配布し軍事組織と軍事行動の拡大強化を図り、中央軍事部科学技術部発行の栄養分析と題する文書に基いて火焔瓶等の武器製作に着手し同年三月一五日から二〇日間中央軍事部主催の下に各地方軍事部若くは軍事委員会の代表者を多摩地方に召集して中核自衛隊の組織と戦術について討議指導し、拳銃の試射を行つた。その結果大阪、京都、愛知、長野、東京都、埼玉、秋田等において主として数名を単位とする小規模の中核自衛隊が編成せられその活動によつて階級斗争が尖鋭化した。

昭和二六(一九五一)年一二月頃から昭和二七年八月上旬頃までの間、日本共産党及びその同調者と観られる日本の労働者学生等若くはそれ等が暴力を以て日本の国内政治に干渉し日本の独立を侵害することを顧みない朝鮮祖防隊と提携し前掲1乃至17のような過激な行動就中火焔瓶事件のような基本的人権と公共の福祉を無視した暴力事件を計画実行し、或は支配機構に対する反抗斗争と観られる暴力事件を各地に惹起した外に日本共産党軍事委員会や朝鮮祖防隊の所謂地下組織と暗躍が有力新聞によつて報導せられ戦後に発展しつつあつた平和な民主主義社会に一沫の不安を漂わせていた。

以上の事実を否定することは出来ないが前掲各証拠を検討すると日本共産党の軍事方針に基いて結成せられた軍事組織の多くが前記暴力事件を企図したのであつて、軍事組織が全国的に強固な網の目を編成する程度に拡大していたと認めがたい。又軍事組織中に朝鮮祖防隊と提携して火焔瓶、ラムネ弾等を製造してこれを使用し或は中央軍事部指導の下に拳銃発射の訓練を行つたが、それは警邏隊や防衛隊の近代的組織や装備の盾の前には薄弱な矛に過ぎなかつた。それ故、昭和二七(一九五二)年一月前後客観的には軍事組織と武装を以て直に国家権力を地域的に麻痺状態に陥れ革命に導くことは困難な情勢であつた。従つて当時の軍事活動は戦略的には防禦戦の段階にあるとして遊撃戦術を以て権力に対する反抗斗争を企図し、労働者や学生等を煽動して警察機関等の国家的権力や資本の支配機構を襲い或は不法に集団示威行進を行つて警察職員の実力行使を挑んで反撃を加え或は朝鮮動乱中日本に駐屯するアメリカ後方部隊の軍需輸送を妨害し、若くはアメリカ軍人の乗用車や宿舎等を襲い反戦思想と反米感情を昂揚し或は政治資金等調達に藉口して強盗、強盗殺人事件を敢行したがそれ自体、若くはそれ等が相呼応して労働者農民その他一般国民大衆の感情と理性を喚起し引いて革命に導入する虞れのあつた客観的情勢を推認することは出来ない。

六、本件犯行後(昭和二七年八月上旬以後)の情勢

1  証人工藤通夫の供述調書、同人の検察官に対する各供述調書(検甲第三〇三号、第三〇四号、第三〇八号乃至第三一〇号)朝日新聞縮刷版(検乙第一〇四号)毎日新聞縮刷版(検乙第一〇三号)によると、昭和二七年八月以後においても日本共産党が埼玉県下等において依然として軍事組織の拡大強化に努めていた事実が認められるが同月以後本件文書頒布前後を通じ前記のような暴力事件は全国的に続発せずその退潮期に入り社会不安が次第に解消しつつあつた事実が認められる。

2  昭和二七年八月一日発行国民評論(検乙第九二号)によると同月末衆議院が解散せられる前日本共産党は来るべき総選挙に具え愛国統一選挙綱領を発表し総選挙斗争はそれ自体抵抗斗争である、吉田政府を打倒しない限り国民を占領制度から解放することは出来ないし、吉田政府を打倒するためには単に国会で多数を占めても駄目である、国会を運用してアメリカ帝国主義と吉田政府のフアツシヨ政策と斗い、これに抵抗して本質を暴露し、国会斗争だけでは国民を解放するための国民政府をつくることが出来ない、ことを教え民族解放民主統一戦線による革命的な斗争こそ米日反動を打倒し国民のため新しい政府をつくるのであることを国民大衆に自覚させて総選挙への参加を訴え、独立と平和のための政策を示し、これに向つて国民を統一し愛国者に投票を集中させねばならない旨革命的議会主義を解明し多数の議員候補者を立て選挙斗争を行つたが、同年一〇月一日施行の衆議院議員選挙において国民の厳正な審判により共産党の議員候補者が全員落選し、翌昭和二八年四月施行の衆議院議員選挙においても共産党が僅に一議席を獲得したのに過ぎなかつたことは周知の事実である。

アメリカ合衆国連邦最高裁判所ブランダイス判事は一、九二七年民意による政治という過程を通じて用いられるところの、自由且つ恐怖のない理論の力に信頼をおく勇敢な自立独立性を持つ人々にとつては、予想される侵害が、充分な討論の機会をもつ暇がないほど切迫しないかぎり、言論によつて生じる危険が、明白且つ現在的なものと認めることは出来ないのである。もし討論によつて虚偽と誤謬を暴露し教育の過程を通じて侵害を避ける時間があるならば適用さるべき救済方法はより以上に言論を用いることであつて、沈黙を強制することではない。急迫の場合のみが言論の自由に対する抑圧を正当化すると述べた。然るに一九五一年デニス対連邦事件においてヴイルソン長官はホームズ、ブランダイス両判事が経験した事態は、国家の安全に殆ど実質的な脅威を与えることのない比較的に孤立した出来事であつた、彼等は本件に匹敵するような事態=相次いで発生する世界的危機と結びついた政府の転覆を目的とする組織の発展=に直面したことがなかつたのである。共産党を組織し且つ暴力による合衆国政府の転覆を教育し支持する犯人等の共謀は暴力によつて政府を転覆しようとする企ての明白、且つ現在の危険を生ぜしめるものであると述べ、言論の自由を制限する一つの基準としてアメリカ法曹会において尊重せられた明白且つ現在の危険の法則を実質的に揚棄したが、これに対し多くの学者評論家が激しく非難した(京都地方裁判所判事青木英五郎―明白且つ現在の危険の法則―自由と正義、昭和二七年一〇月一日発行第三巻一〇号参照)。

然るに、一九五二年わが国民大衆は相次いで発生する世界的危機と結びついた政府の転覆を目的とする日本共産党の軍事組織の発展に直面しながらブランダイス判事の明白、且つ現在の危険の法則の合理性を実証したということが出来る。それ故敗戦後における日本の民主主義の発達は言論の自由に関する限りアメリカのそれに較べても高く評価されねばならないであろう。

七、第六回全国協議会における日本共産党の戦術の転換

1  昭和三〇(一九五五)年七月二八日に開かれた日本共産党第六回全国協議会において次のような決議がなされている(検乙第一〇五号前衛一九五五年九月号)。

わが党の基本方針は依然として新綱領にもとずいて日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するためにすべての国民を団結させて斗うことである。

党の任務は綱領を実現するために労農同盟を高め、これを基礎にすべての愛国的進歩的勢力を民族開放民主統一戦線に結集することである。強大な民族解放民主統一戦線をつくるには正しく強大な党の建設が必要である。民族解放民主統一戦線を進める上で党が犯した第一の誤りはこの基本問題をおろそかにしたことである。その結果無原則な自然成長的傾向が生れた、第二の偏向は統一戦線がせつかちに、しかもたやすく作れるという考えである。第三の誤りは極左冒険主義の戦術を採つたことである。この戦術上の誤りは統一運動に重大な損害を与えた。

民族解放民主統一戦線は独りでに出来上るものでもなければ簡単に短い期間のうちに出来上るものでもない、それは広い国民大衆の中で党の長い期間に亘るたゆまず屈しない政治的、組織的活動によつてのみ実現出来る。

党と大衆との結びつきを強めるために党の公然活動を全面的に強化することが常に必要である。非合法活動は、情勢と階級の力関係によつて、これを余儀なくされる場合に行う活動である、一九五〇年から一九五一年の弾圧の激しかつた時期には、合法活動を党の主な活動と考えることは正しくなかつた。一九五二年五月占領制度が形式的に停止され情勢が変化し、合法活動を展開する可能性が拡大した。この可能性を活用する点でわれわれは立遅れている党は今政治活動を合法的に展開できるすべての条件を全面的に活用しなければならない。

2  アカハタ一九五五年八月一九日発行(検乙第九三号)及び党建設一九五五年九月一日発行(検乙第一〇八号)によると宮本顕治は第六回協議会の基本的意義と題し次のように述べている。

わが党の中央委員が、一九五〇年六月六日マツカーサーの公職追放を受ける前国会に三六の代議士をもつて、三、〇〇〇、〇〇〇の投票を獲得したが、一九五三年には三分の一の投票と一つの議席という状態に勢力を失つた。これは弾圧のせいもあるがわが党が正しい進路をとつていなかつたということが大きく関係している。正しい綱領を持ちながら具体的な戦術の点で極左冒険主義とセクト主義の過ちを犯していたのである。

3  アカハタ一、九五五年八月二三日発行(検乙第九四号)に日本共産党の第六回全国協議会の決議についてと題するアカハタ編集局の解説が掲載せられてる、それには次のように説いている。

一九五〇年から一九五一年にかけて、日本共産党の指導的な人々の間には、重大な意見の対立があつたが、第六回全国協議会ではそれ等の問題は完全に解決した。この決議文では共産党が新しい綱領を採用した一九五一年以来運動の中で生れて来たいろいろの誤りや欠点について極めて大膽にしかも卒直に自己批判をしている。

共産党は朝鮮戦争が起きた後の日本の内外の情勢について誤つた評価をした、それは米日反動勢力が国内的にも、国際的にも孤立化して非常に弱くなつたと判断し、他方共産党やその他の民主勢力が非常に強大となつてアメリカ帝国主義を撤退させて日本の独立をかちとり、日本の反動勢力の支配を打ち破り、革命が近い将来に成功し得るという誤つた判断を下したのである。党は国内に革命状勢が近づいていると評価した。第六回全国協議会は、党がこのように内外の情勢に対し誤つた評価をした結果、共産党員やその周囲の比較的小数の党員で行つた極左冒険主義的活動がもつとも大きな誤りであつたと認めている。日本共産党には古くから革命というものを安易に考え、せつかちな方法でやれるという思想があつたことを認め、これは党内に持込まれた有害小ブルジヨア的思想であることを指摘している。今度の全国協議会は党内からこのような極左的な有害な思想を排除して本当に大衆の中に根をおろし、大衆のいろいろな要求をみたすために奮斗し、大衆から飛びはなれて先に進むのではなく、百万大衆と共に一歩一歩前進しなければならない旨を述べている。

4  証人藤田敏生の供述調書によると日本共産党中央委員志賀義雄は、昭和三〇年一月二六日京都市内の小学校においてわれわれが火焔瓶を投げたのは間違いであつたと反省し、火焔瓶を使用して革命が成就するならもつと沢山使つたであろうと述べている。

5  前掲証人、佐藤直道の供述調書によると同人は、日本共産党札幌市委員会常任委員であつたが党として革命の条件があると主張されていた、当時北海道においては、そのような条件はなかつたから党の方針に従つて行動しても革命に持込むことは出来ないと見透していた、それ故徳田書記長の軍事論文は党の内外で鋭く批判されていた、私は札幌委員会軍事部を通じ党中央へ意見書を提出したが顧られず若い党員から危険視せられ私の理想と党の方針が相違したので脱党した、と述べている。

6  京都市内の下級党員であつた被告人八住梧楼は検事に対し衆議院解散後如何に弁解しても社会では共産党は政党ではない、暴力団体と思つているから金もなく疲れている際に共産党から候補者を立てても惨敗することが予想されるから今回の選挙には候補者を立てないように上申書を認めて上級機関に提出しておいたと述べている。

下級党員が敢えて上級機関に対して上申書や意見書を提出して反省を促さざるを得なかつた明白な極左冒険主義の誤謬乃至虚偽について党中央委員は総選挙の結果を手を拱いて傍観する訳にいかなかつた、同年一〇月頃直に第二二回中央委員会を開いて善後策を講じたが、所謂自己批判を公表したのはそれから三年後であつた。

7  証人山辺健太郎は前記長野地方裁判所諏訪支部において次のように述べている。

A  昭和二七年一〇月頃第二二回中央委員会において「選挙斗争の教訓に学べ」を決定した、われわれがここで国民の行動の統一について特に力を入れて強調するのは国民の行動の統一なしには民族解放民主戦線の統一を打固めることは不可能であるからである。われわれの行動の中には往々にして国民の実情に添わない極左的行動が一部に現われた、例えば反動勢力に対する個人的襲撃や尖鋭分子のみによる集団斗争等がそれである、それを恰も革命斗争であるかのように誤認しそれを奨励するような傾向すら見られた。大衆の要求に基く実力的行動の行使を否定するものは社会民主主義者に堕落するだろう。しかし条件と必要を無視し、大衆の現状を無視し、党員並びに尖鋭分子だけが勝手に振舞うことは革命運動における犯罪行為である。総選挙に学べという、こういう趣旨の決定が当時各級機関及び細胞に行き渡つて警告された、従つてその後地方の細胞の共産党員が発電所や鉄道等をダイナマイトで爆破させるということは考えられない。

B  一九五〇年日本共産党は国際批判を受けたがそれは要するにアメリカ軍隊の占領下の日本では議会の多数を占めて政権をとることが出来ないという意味の批判で今日では党員の間では自明の真理になつているが正直なところ誰も素直に受取つた訳ではない、全党が一致して受取つた訳ではない、受取り方が違うから党内に分派ができた、しかし国際批判を無条件で受け容れようという意味で誰言うとなく通称国際派という分派の出来たのは真実である、末端の方では事情を無視して急進的な意見を吐いた者もあつたが国際派と言われた宮本、その他中央委員の責任のある人々は、国際批判によつて直に日本の敵はアメリカ帝国主義だ、これに対して武装斗争を始めなければならないと言うようなことを言わなかつた、事情を無視して急進的な意見を吐いて除名された者もあつたが、それは大体一九五〇年から一九五一年にかけてであつた、分派の争うところでは対立感情から仲間を集めたり、党を作つたりして組織がルーズになり、それに乗じて挑発者の入り込む可能性が非常に多くなつた。

8  朝鮮戦争の発生事情と経過。

A  昭和二五(一九五〇)年六月二五日早朝北鮮軍は突如戦車戦斗機を加え、三八度線を一一個所で突破し、また別に東海岸の江陵、三陟、盈徳、浦項にも上陸を行い、南鮮領深く侵入した、その兵力約一〇〇、〇〇〇、戦車一〇〇台と見られた、進撃は全く突発的でこれを予知させる動きはなかつた、ただ韓国では、動乱勃発前政情が不安であつた、北鮮はこの機を利用して南北平和的統一を提唱したが韓国政府によつて一蹴され平和的統一の企図が失敗したところその直後に動乱が起つたのであつた。

これより先に米国はソ連に対して立ちおくれていた極東政策を取戻すべく、同年一月以来懸命の努力を払つていたが同年六月に入りその動きは特に活発となつた。それは対日講和の急速な締結を指向していた、六月六日マツカーサー元帥は日本共産党幹部の追放を指命し、翌七日には「アカハタ」幹部の追放をも指令した、六月一七日ダレス国務長官顧問は対日講和に関し協議のため訪日、次いで翌一八日ジヨンソン国防長官、ブラツドレー統合参謀本部議長も来訪し東京でマツカーサー元帥と重要協議を行つた、この会議で対日講和条約に伴う日本の安全保障ならびに軍事基地問題その他米国の太平洋における防備問題も広く討議された、その一環として米国が堅持していた台湾不介入の原則さえ再考される気運がみえた、ダレス顧問は東京会談前韓国を訪問して李大統領等韓国政府首脳と会見し尚三八度線を視察した、米首脳者等は動乱勃発二日前に当る二三日極東情勢については楽観していると発表した。

動乱勃発するや米国は韓国支援に立上つた。米国大統領はマツカーサー元帥に対し韓国への武器発送を命令し、次いで二七日「朝鮮動乱は共産主義が独立国を征服するに当り革命工作に出る段階をすでに終つて今や武装侵入と戦争とに訴えることを明にした」との声明を発し韓国支援、台湾防備のため米海空軍の派遣、フイリピンに対する軍事援助の増強等を発表した。しかし戦火は米国の予想以上に拡大し応急措置では間に合わなくなつた。

B  北鮮軍は南鮮に侵入して以来三日で早くも京城を陥れた、日本から急派された米軍先遣部隊は七月三日仁川と利川との間で北鮮軍と初めて会戦したが圧倒的な兵力と戦車及び戦斗機に支援された北鮮軍は漢江から一挙に錦江に進出し二〇日臨時首都大田を攻略した、他の主力は七月末までに米韓軍を洛東江東岸一角に追込んだ。

洛東江の全長二〇〇キロの防衛戦内に追込まれた、国連軍はその後米本土から陸海軍部隊の増援を受け、英濠両軍を含めた国連海空軍は北鮮軍の補給路破壊ならびに北鮮軍事基地(軍需工場)を爆撃し反撃の機を待つた、かくて戦局は一進一退を続けること一月半を経て九月一五日国連軍二個師は突如二六〇雙の艦船を以て仁川に上陸を敢行しこれと呼応して洛東江周辺の国連軍も一斎に総反撃を開始した、ここに戦局は一変し京城は九月二六日陥落し、半島南部の防衛線から反撃に出た国連軍も各方面で北鮮軍を圧倒し、金泉報恩等を抜いた一隊は二六日遂に京城地区の国連軍と握手し北鮮軍を京城、大田、大邱、釜山を結ぶ線で東西に両分した、この結果国連軍の勝利は確定し一時ダンケルクの二の舞を憂慮された朝鮮事変も当初の予想を裏切り勃発以来三ヶ月目に早くも終結の希望が濃くなつた。

その後同年一一月末までに西部戦線の米軍は、清川江を渡つて定州に到達した。一方東部戦線では韓国軍が清津を貫いて更に北進し、一部隊は満韓国境に達し国連軍による朝鮮全土の制圧も間近いと思われた。

然るに共産軍大部隊の介入によつて、この希望は霧散したばかりか国連軍は総退却を余儀なくされ、再び戦勢は一変するに至つた、中共は動乱勃発以来これを米帝国主義の侵略と呼び、北鮮軍に心理的支援を与えて来たが、国連軍が三八度線を突破して大挙して鴨緑江に迫るやその言論機関は一斉に祖国の危険を説いて北鮮武力支援を叫び抗米援朝保家衛国のスローガンの下に義勇軍の志願を煽つた、一一月初め北京放送は北鮮支援を正式に発表すると共に義勇軍の派遣を明らかにした、かくて一一月二日韓国軍は西部戦線で共産軍部隊と初交戦した、然るに共産軍は同月二六日俄然大兵力を以て反撃に出た。その結果一二月末までに北鮮全域は再び共産軍の手に帰するに至つた。

一九五一年元旦早く、共産軍は人海戦術により攻略を開始し、同月四日京城を攻略し、八日には一時原州を占領したが、国連軍の優勢な火力および空軍の前に膨大な損害を出し漸次後退し、三月一四日遂に京城を再び国連軍の手に委ねた、国連軍は同月末までに南鮮全土を回復し四月三日には再び大挙三八度線を突破した。共産軍は同月二二日全線に亘つて大反撃を開始し国連軍を三八度以南に押し返した。同年五月一六日第二次攻勢を敢行し中部戦線で韓国軍陣地を突破したが国連軍の反撃にあつてその意図を挫折した。この第二次の攻勢で共産軍は第一次攻勢で得た地域を全部失い前後二回の攻勢で蒙つた損害は一五〇、〇〇〇人にのぼると推定された、国連軍は共産軍総崩れの機に乗じ三度北鮮領に進攻し、六月一〇日には共産軍が「鉄の三角地帯」として誇つた最大の補給地たる金化=鉄原地区を制圧し一進一退の戦局にあつて著しい戦果を記録した。

しかし国連軍のこの戦勝も戦局全般から見れば矢張り行詰り状態の一部に過ぎなかつた、共産軍が人海戦術を以て国連軍を海へ追い落すことの不可能さが立証されたと同時に政治的に縛られた国連軍もその優勢な火力だけでは朝鮮全土を平定することが困難であるとされた、かくして双方の勢力が均衡し戦局の行詰り状態はいつ果てるともわからぬままに満一週年を迎えた、ところがその前夜ソ連マリク国連代表は突如三八度線停戦提案を行い、リツジウエー国連総司令官はこれに答え同月三〇日共産側に停戦を呼びかけ、同年七月八日開城で休戦予備会談が開かれ一〇日から休戦本会議が開かれた、それにより世界諸国に動乱終結近しとの希望を与えたが、国連側は未だ共産軍側の誠意を疑い休戦会議が共産側に時を与えるワナとなることを警戒し平壌開壌道路を除く地域でなお戦斗を経続した。

C  休戦会談はその後多くの難問題を解決し、翌昭和二七(一九五二)年九月になつて最後に残された捕虜交換問題で双方の主張が対立し、同月一五日米国務省は声明を発し休戦会談はあくまで板門店で続行しこれを国連総会に移さない態度を明にし、同年一〇月八日休戦会談において国連軍側は共産軍側が捕虜交換問題について国連軍側の提案を受諾するか、共産軍側の建設的な提案を出すまで無期休会を要求したので行き詰つた、その後翌昭和二八年四月二六日に至つて漸く再開せられ、同年六月八日捕虜交換付属協定が成立したのである。休戦交渉成立に当つては国連各国のアメリカに対する制約と共産軍側の譲歩が特に目立つている。

D  休戦会談開始後地上戦は局部的なものに限られ双方共防衛線の強化に専念し防衛線上又はその付近で間歇的な陣地争奪戦が演ぜられたのに過ぎない。併し国連空軍は休戦交渉開始後は攻撃目標をもつぱら共産軍の前戦基地及び後方との連絡線の破壊においていたが、昭和二七年六月二二日突如五〇〇機以上の戦爆機を以て鴨緑江南岸にある朝鮮最大の水豊外三ヶ所の水力発電所を攻撃し、次いで七月一五日には平壌、沙里院、八月五日北鮮七八ヶ市町村の住民に対し爆撃の予告を発した。その間昭和二六年九月八日サンフランシスコにおいて平和条約と同時に日米安全保障条約が締結せられ、翌昭和二七年四月二八日両条約とも効力を発生したことは公知の事実である(時事年鑑朝日年鑑参照)。

9  以上朝鮮戦争の発生当時の情勢、戦況の推移および休戦交渉の経過に鑑み、北鮮軍が南鮮を席巻しつつあつた緒戦においては格別その後戦線が復旧し戦局が行詰りマリク国連代表の提案により休戦交渉が開始された昭和二六年七月以降平和条約並びに日米安全保障条約が締結せられ、その発効を見るに至つた前後を通じ、日本共産党上級機関が前述のとおり漫然と日本の内外の情勢について評価を誤り米日反動勢力が国内的にも国際的にも孤立化して非常に弱くなり他方共産党その他の民主勢力が非常に強大となつてアメリカ帝国主義を撤退させて日本の独立をかちとり、日本の反動勢力の支配をうち破り革命が近い将来に成功し得るという誤つた判断を下し直接革命乃至は内乱を実行させる意図を以て軍事活動を推進させたとは到底考えられない、日本共産党は前記コミンフオルムの国際批判を容れプロレタリア国際主義(平沢三郎訳スターリン著レーニン主義の基礎について浅川謙次郎訳劉少奇著国際主義と民族主義参照)に基き北鮮軍や共産党のため戦況や休戦交渉を有利に導くため国連軍の主力であるアメリカ軍の後方基地日本を不安に陥れ日本国民の反戦反米気分を昂揚しアメリカの軍需輸送を妨害するために日本共産党の軍事方針による反抗斗争を推進し暴力事件を惹起させたのではなかろうか。

第五、日本における革命的情勢。

1 証人、岡倉古志郎(元同志社大学教授国際政治学外交史担当)は日本の敗戦後における革命的情勢及び国内情勢に対する二大勢力の影響について次のように所見を述べている。

A  結論的に言うなら敗戦後の日本に革命的情勢はなかつたし、現在もその情勢はないと思考してよいと思うが、その論拠として革命的情勢とは何かという原則的問題がはつきりしなければならない。

革命的情勢には第一、一般国民大衆の指導力となる労働者農民階級及び国民大衆が生活に窮乏している状況の存在すること、第二、国民大衆が何等かの形で従来の政治のあり方についてその変革を要求し、更に支配階級の政治経済の指導権を掌握している者が従来の政治方式のままでは政治に危機の存することを認めること、第三、政治の方式を変革しなければならないという強い不満を持つ者等の積極的行動を集合しそれを組織し指導する力のあること、以上三つの条件の存在することを必要とする。これを要約すると先ず特定政党又は各種団体の革新的政治を欲求する事情が客観的に介在することが必要である。この観方は革命の盛り上る客観的な側面だけではたりない。それを有機的に結集して主体的情勢に発展させ国民大衆を指導し権力の交替を要求する動因と組織した力が必要であることになるが、日本共産党にはその力がなかつた。革命の客観的条件を積極的に主体的条件に発展させることによつて革命の成就が問題になるのであるが、日本共産党がこのような考え方をはつきり定式化していたと認められない。レーニンは「第二インタナシヨナルの崩壊」中に革命の客観的情勢について論説しているが日本の敗戦後一〇年間に定式化された革命的情勢はなかつたと考えられる。

一九四五年の終戦後一、二年間は、国民生活が窮乏し社会の混乱はその極に達した。この時期には国民全体が不平不満を抱いていたが、それを一定の政治的方面に向けることは出来なかつた。産別が一〇月斗争を行い賃金値上を要求しこれを中心とした労働攻勢があつた。これが或る程度引き延ばされ「二・一スト」の時期に入つたが、「二・一スト」以前は労働組合の組織化の進行するための過渡期であつて革命的情勢は欠けていた。

「二・一スト」以前当時労働者及び一般国民大衆は日本を解放する良いチヤンピオンとしてマツカーサーをたたえ、日本共産党の野坂参三はアメリカ進駐軍は解放軍であり労働者の前衛であると考えた。従つて一九四五―六年には、革命的情勢はなかつた。

一九四七年「二・一スト」は、戦後最も多くの労働者が参加したストライキであつて、極めて激烈な階級斗争の手段を採つて時の支配者と対決した劃期的な事件であつた。この情勢を発展させば革命が起るかも知れないが、連合国最高司令官の弾圧によりストライキを中止するに至つた結末を考えると、日本進駐のアメリカ軍によつて補強され支持されていた日本の国家権力は絶大な力を持つていた。他面労働者はこれに対抗する力を結集してゼネラル・ストライキに進むかと見えたが、労働者一人一人は内閣を打倒して政権を奪い取ろうというのではなく、当時の労働組合の全国的組織であつた産別会議を中心とした全国労働組合共同斗争委員会の指導者又は日本共産党員に操縦せられて動いていたことが判明した。その意味で数百万の労働者の結集であつたがその力は弱く労働組合の指導者と農民その他一般大衆との間に強い絆が出来ていなかつた。大衆は「二、一スト」に同情のある態度であつたが、その間に溝があつたから指導者がストライキを決行させたとしてもその斗争は無惨な敗北に終ることが判り切つていた。このような情勢は学問上主張されている革命情勢とは多少隔りがあると考えられる。

一九四八―九年には三鷹、松川、下山事件が相次いで発生した。この時期以後アメリカ政府は日本占領政策の一環として再軍備、軍事基地強化の方向を採り日本をアジアの反共の鉄壁にすることを決定し対日政策を強化するために日本国内の民主勢力に圧力を加え、一部労働組合の分子がその挑発に乗ぜられた面があつたが革命を促進する踏切り板はなかつた。

一九五〇年一月コミンフオルムの批判として、日本の情勢についてと題する匿名の論文が発表された。それは日本共産党の指導者野坂氏等の日本革命は国会において達成する、という見解を批判したものであつて、アメリカ占領軍は日本の解放者でなくして日本国民の各層を支配し経済を圧迫している、従つてアメリカ政府又はアメリカ軍の支配下において日本の政治的変革を随時に行うことが出来るというのは全く甘い考え方であるということを強く指摘している。その批判を基礎にし、一九五一年に日本共産党は新綱領を発表し日本国民の当面の要求と題する意見を付してその態度を明にした。党の周辺にある労働者勤労者は日常の経験から二・一スト以後は日本の真実の支配者はアメリカであるという認識を深め、コミンフオルムに指摘された観方やアメリカの対日政策が労働者や国民大衆の意識に一つの影響を与えた。

一九五二年は、日本周辺のアジア諸国に重要な事件が多く発生している。国際的に観ると朝鮮戦争が継続しアメリカ政府及び軍部は軍事行動強化の方法として同年二月細菌兵器を使用した。同年五月には巨済島の捕虜収容所においてアメリカの収容所長が捕虜に監禁せられた事件が起つた。その結果アメリカ軍は戦争遂行について断乎たる態度に出た。同年六月には鴨緑江の南岸水豊ダムに大量の爆撃を加えた。

日本においては平和条約、日米安全保障条約、行政協定が発効し日本の軍事基地化が軌道に乗り、破壊活動防止法、警察法、労働三法の制定、又は改正が行われ、国内にフアツシヨ的な体制が強化され、警察予備隊が保安隊に切り替えられ、アメリカが日本を掌握し再軍備コースを推進する力が如実に強化された時期であつた。

その反面に世界及び日本の情勢が新しい変化を齎す要因があつて、同年二月モスコーにおいて国際経済会議が開かれ鉄のカーテンを中心として発展し、日中貿易の再開の端緒が開かれた。同年一〇月頃には北京で、同年一二月にはウイーンで、アジヤ会議、ヨーロツパ世界諸国平和会議が開催され、朝鮮戦争、印度支那戦争等を終結し又米、英、中、ソ、仏の五大国が会談し、平和的協力の下に国際紛争を解決することを決議した。又水豊ダム爆撃にはイギリス政府が驚き英米関係にひびの入る端緒になり、且つビルマ、印度の指導者がアメリカの政策を批判したのもこの時期であつて、一九五三年乃至一九五五年にかけてアジヤは勿論世界にも国際的緊張が緩和されて行く動きが生れ出て発展するに至つた。

それ故一九五二年にアメリカ及び日本の吉田内閣の政治勢力は強大であつたから、仮令火焔瓶を投げても革命が起ると考えるのは子供以下の愚な考え方であつた。

B  二大勢力対立関係の影響について。

一九四五年から一九四七年までを第一期一九四八年から一九五〇年六月までを第二期、一九五〇年七月から一九五三年六月までを第三期、一、九五三年七月から現在までを第四期に分けることが出来る。

第一期の特徴は、枢軸諸国に対する反ナチスの解放戦争で、連合国側が勝利を収め国際的な民主民族解放運動と一時的な社会主義の変革が行われたことである。東欧では、ポーランド、チエツコスロバキヤの人民民主主義の政治的変革が行われ、アジヤでも、北朝鮮、印度支那北部に変革が行われた。

初期においては両陣営の対立はなく、米、英、ソ、の三大国の協力という要素が残存していて両陣営の両極作用が二つに別れて結集して行く時期であつた。

一九四六年になると、反共反ソのコースが米英の指導者によつて出始めた。同年三月英首相チヤーチルの「鉄のカーテン」という言葉が端緒となり、一九四七年春にはトルーマンのトルコ、ギリシヤに対する援助を中心としたトルーマン・ドクトリンが行われ、その直後、欧州においてマーシヤル計画が発表された。同年秋には欧州でコミンフオルムが結成せられ冷戦の前提が積み上げられた。

第二期に入つた一九四八年には、冷戦が本格的になりマーシヤル計画の実施期になり、更に北大西洋条約の母体であるブラツセル条約が成立した。この時期からアメリカの欧州に対する支配力が強化されてソ連陣営に向つた軍事的な集団に発展して行く転換期に入り二つのグループが判然と対決して火花を散した。

先ずチエツコの二月革命が起り、農民、労働者、青年婦人の勢力が国内の反革命勢力を押潰して社会主義革命の段階に押し進めた。同年四月伊太利の総選挙に際しアメリカは色々な形で選挙干渉を行い民主党内閣を成立させた。同年六月には東独西独を分離して西独を再軍備のコースに乗せる一つの前提工作をして秋にはベルリンを閉鎖して幣制改革を行つた。当時ベルリン駐屯のアメリカ軍司令官は一触即発の危機が来ても敢えて辞さないと発表し国際戦争の危険を孕んでいることを示唆した。

一九四九年末中共の革命が成功し、中華人民共和国が成立した。その影響によりアメリカのアジヤ政策を根本的に変革しなければならない結果になりアジヤ民族に民族の解放を叫ぶ刺戟を与え米英のアジヤ植民地政策が苦境に陥り、更に東独においては共和国としての政権が樹立され東欧におけるアメリカの政策に大打撃を与えた。この時期からアメリカの世界支配政策に大きい矛盾が発生し、特にアジヤにおいては中国革命の成功が東南アジヤ全体にアメリカが支配できない事情が盛り上り、一九四九年秋から米、英の資本主義の経済に恐慌が起り翌一九五〇年六月朝鮮戦争勃発の客観的情勢があらわれ、この時期を境として冷戦が熱戦に変り第三次世界大戦の起る可能性が歴然として現われた。

第三期においては朝鮮戦争勃発後一年の間にアメリカの所期の意図にいろいろな矛盾が出て戦線が膠着しイギリス、フランスはアメリカに同調せず、アジヤにおいては印度以下の諸国が第三勢力を結成して米英両国の政策を批判し、更に一年後(一九五二年四月一一日)には朝鮮戦争とデモクラシー解決のためマツクアーサー元帥の罷免が行われ、ソ連のマリク国連代表の提案により休戦会議を開くことになつた。

一九五一年―五二年頃にはアメリカの従来の世界政策が矛盾を次々に現わし新しい力による政策ではなく、国際緊張を解決し平和的観点から国際関係を律して行くべきであるということが次第に判り、一九五三年には朝鮮戦争の休戦協定が成立した。

第四期に入り一九五四年には印度支那戦争が停戦し周恩来、ネールが平和五原則を発表しそれが新しい国際関係の基礎になつた。更にジユネーブの四大国巨頭会談に結集され一九五三年以来時が経つに従い国際緊張が緩和し冷戦の雪解けとなり世界戦争の危機が去つて平和に転換する過渡期の芽が現われた。

2 証人山辺健太郎の前掲供述調書によると、同人は革命的条件について次のように説明している。

共産主義の原則によると革命的条件とは搾取されたり圧迫されたりした者がこれではどうにもならないと意識して変革を要求するというだけでは十分ではない。下層階級だけが不満足ではない社会の上層部までも今まで通りではやつて行けないという情勢が来なければ社会の革命的情勢と言えないとはつきり言つている。革命的情勢についてはマルクス、レーニン主義の上から客観的基準があつて単に抑圧されているというだけでは不充分であると繰返して言うている。そういう原則から言うと革命的情勢の有無は自から明になつて来る。

3 証人谷口善太郎(元日本共産党京都府委員、衆議院議員)の供述調書によると同人は内乱の発生条件について次のように述べている。

過去三〇〇年間日本には内乱の発生するような条件は一度もなかつた。内乱が発生するには窮乏生活を打破し国民の生活を擁護するために自然発生的に組織的に内乱に結集する条件がなければならない。国民が窮乏しただけではなくそれが内乱に転化する主体的条件が必要であるが、日本共産党にはその主体性や力がなかつた。朝鮮戦争が発生した後これが大戦争になるのではないかと言う不安が国民の中にあつたかも知れないが、内乱の勃発する情勢と言えない。

4 レーニンは一九一五年に発表した論文「第二インタナシヨナルの崩壊」に革命的情勢について次のように説明している。

マルクス主義者にとつては革命的情勢なしに革命は不可能である。しかもどんな革命情勢も革命へ導くとはかぎらないということは疑問の余地がない。一般的に言つて革命情勢の徴候はどういうものか次の三つの主な徴候を挙げれば、恐らく間違いはなかろう。(一)支配諸階級にとつて不変の形ではその支配を維持することが不可能になること。「上層」のあれこれの危機、支配階級の政治の危機が亀裂をつくり出し、それに添うて被抑圧階級の不満と憤激が爆発すること、革命が到来するには通常「下層」がこれまでどおりに生活することを欲しないというだけでは足りない。更に「上層」がこれまでどおりに生活することが出来なくなることが必要である。(二)被抑圧階級の貧困と窮乏が普通以上に激化すること、(三)右の理由から大衆の活動力が著しく高まること、大衆は平和な時期にはおとなしく搾取されるままになつているが嵐の時代には危機の環境全体と「上層」そのものによつて自主的な歴史的行動に引き入れられる。

個々のグループや党の意思だけでなく、個々の階級の意思にも依存しない。これらの客観的な変化なしには革命は概して不可能である。これ等の客観的変化の総計こそ革命的精神と呼ばれるものなのである。このような情勢は、一九〇五年のロシヤと西欧のすべての革命期に存在した。だが又それは、前世紀の六〇年代のドイツにも一八五九―一八六一年、一八七九―一八八〇年のロシヤにも存在した。けれども、これらの場合には革命は起らなかつた。何故か、およそ革命的情勢があれば必ず革命が起るという訳のものではなく、ただ次のような情勢からだけ、即ち右に列挙した客観的変化に主体的変化が結びつく場合、つまり旧来の政府を粉砕するまたはゆるがすに足る強力な革命的大衆行動を起す革命的階級の能力が結びつく場合にだけ起るものだからである。

これが革命に対するマルクス主義の見解であり、それはすべてのマルクス主義者によつて幾度も幾度も展開され、議論の余地のないものと認められたものである。

5 以上の諸説と前掲日本共産党第六回全国協議会の決議を綜合すると次のような推論が成立する。

敗戦日本においては夙にマルクス主義者によつて議論の余地がないと言われていた革命的情勢と認むべき「経済的並に政治的危機」は成人の視野に現れなかつた。然るに日本共産党指導者達は朝鮮戦争が勃発した後日本に革命的情勢の兆候が現われ近い将来に革命が成功することが出来ると主張し、昭和二六年一〇月第五回全国協議会において新綱領と共に軍事方針を採用し党員及び同調者に極左冒険的活動を促し暴力事件を惹起するに至らせた事実を自白したことになる。それならば日本共産党の指導者達はマルクス主義の研究を怠り凡そマルクス主義とは「縁もゆかり」もなさそうな戦術を採用し、昭和二六年末以降下級党員や同調者を偽瞞し極左冒険的軍事活動を展開させたと謂うことが出来る。

第六、日本共産党の戦略戦術に対する若干の批判。

1 証人岡本清一(同志社大学教授政治学政治史担当)の証言、によると同人は民主主義政治の法則について、次のような所見を述べている。

A  資本主義の経済がそれ自身の構造的論理(法則)を持つているように資本主義の政治も亦独自の法則を持つている。資本主義の政治の法則は資本主義の経済の法則がそうであつたように資本主義政治を構造的に可能にしていると同時にその崩壊を必然ならしめている歴史的法則でなければならない。近代的民主主義政治の歴史的発展を通じこの法則を掴みこれを明にすることなくして革命の方式を論じても、それは過去の革命はこうであつたという前例主義を出ない。労働者階級は自由の拡大のための斗争により国内的にも国際的にも一切の政治的暴力を廃棄すべき歴史的任務を帯びた階級である。これはプルジヨアデモクラシーの最も基本的な法則である。

B  近代的国家が憲法を以て保障している自由は自由な状態としての自由と、自由な状態をつくるための自由とに分けることが出来るが、言論出版結社の自由は自由な状態をつくるための自由である。その近代的意味は政府を批判し改撃し政府を打倒する自由である。政府を謳歌礼讃する自由を保障することは無意議である。この近代的自由は自由を持たなかつた者が国会において要求し斗い獲る過程において成長したのである。国会の歴史において国会政治を今日の状態にまで発達させた者は労働者階級である。近代的自由を保障された国会政治或は近代民主主義政治はそれによつて暴力又は武力によらずに政治的権力の交替を円滑に行う歴史的意義を帯びている。

国会政治或はブルジヨア民主主義政治の確立は暴力又は武力によらないで反権力斗争を行うことを可能にした。この制度が成立していない間は政権を獲得しようとすれば必ず暴力又は武力を行使せねばならなかつた。一九一七年のロシヤ革命や一九四九年の中国革命は国会政治或は近代的ブルジヨア民主主義政治が行われていない限り暴力又は武力を行使せざるを得なかつたのである。日本においても明治維新に西郷南州が武力を以て徳川幕府を倒したのは不当であるという観念は成立しない。

労働者階級の中にはブルジヨア民主主義政治がブルジヨア支配のための制度であつてブルジヨア社会の終焉の日の接近と共に崩壊にあるという理論の侵透により懐疑的な分子も少くないが、実践的には問題は解決し労働者階級は自己の階級的意識においてブルジヨア民主主義制度を守り国会政治防衛のために斗つている。

C  労働者階級は政治的暴力によらないで労働者階級の政権を樹立しようとするには政治的自由を更に拡大せねばならない。然るに保守主義の政治家とこれと結合した階級によつて自由を抑圧する法令をつくり労働者階級が暴力によらないで労働階級の政権を樹立するのを妨害しようとしているのが現状ではなかろうか。

中国共産党は先に昭和一四年に国民党と協力して憲法草案を可決し立憲政治を敷くことに努力したが当時重慶爆撃のため国民会議を開くことが出来なかつた。その後共産党は立憲政治を行うことを要求したが国民党は選挙をすれば敗北することをおそれ共産党を圧迫する傾向があつた。若し中国に憲法政治が行われておれば中国は武力革命を経なかつたであろう。

イギリス共産党は、一九五一年綱領「社会主義の道」を以て国会へ共産党の代表者を送り国会を質的に変革して人民のための民主主義を打ち樹てることを明にした。アメリカ共産党は、一九五三年綱領を以て平和的手段を以て第三党とし人民の政府をつくる方針を明にしたが、一九五四年アメリカ共産党取締法を以てアメリカ共産党は暴力革命を企図しているとして弾圧の口実を作つた。今日ではその国の民主主義の進歩の程度は共産党が如何に遇せられているか又如何なる綱領戦略を立てているかによつて決定することが出来ると言つても過言ではない。

D  日本の社会が事実上アメリカの独占資本とその権力の支配下にある状態において果して近代的自由の政治制度即国会主義の政治制度が存在し得るであろうか。一般に国家的独立なくして一国の民主主義はあり得ないと考えられるがそれは古い型の帝国主義的植民地支配の概念に固着した判断であつて現在の事態は全く変化している。日本の資本主義経済はアメリカの支配を受けつつそれから分離して独立の運動コースを持つていることが認められる。労働者階級もアメリカの支配下においても尚政治的自由の拡大を通じて政府を打倒して労働者階級の政府をつくる可能性を持つている。これは占領中においてもアメリカの支配が日本政府を通して行われ直接日本の国民と対立関係に立たなかつたことにより可能であつた。併し日本の国民が平和的に政府をつくることと、平和的に作られた政府が平和的に存続することが出来るかということは別個の問題である。

2 向坂逸郎(九州大学教授)は日本共産党の綱領について次のように論評している。(日本共産党を評す、―社会主義協会発行社会主義昭和三一年七月第五九号)

A  日本共産党は敗戦後だけを考えて見ても根本的な問題についてしばしばその見解を変更した。―武力革命方式から平和革命方式へ、平和革命方式から武力革命方式へ。そしてまた武力革命方式から何処かへ。今日まで日本共産党は凡そ労働者政党の不可欠のこの根本問題について黙して語らない。―それは、日本共産党が三〇年を超えてもち続けてきた日本資本主義に関する見解を根本的に変更するかどうかの問題である。

一九五一年八月の「綱領―日本共産党の当面の要求」は、日本共産党がそれまでもちつづけた根本見解を変更していない。即ちこの時期に至つても日本共産党は日本を支配するものは天皇制を中心とする封建制であると考えたのである。つまり日本には資本主義のために道をあける革命がこれからなされなければならぬと考えたのである。だから綱領は資本主義の限度内で理論的には実施できる要求をかかげている。「対外政策、国家の構造、農民の問題、労働者の問題」のどの要求を見てもその多くが理論的には資本主義社会内で実現できる性質の問題である。だから労働者階級は資本家階級の大多数と共に封建制と斗つてこれをはねのけなければならない。その後に社会主義の実現のための斗いがくる。日本には二段の革命が行われなければならない。綱領はこのようにし整理し考えていないが、この考えの論理はこのようにならなければならない。

したがつて、また日本の「革命の力」は綱領によれば「民族解放民主統一戦線」の結成である。ここでは「革命の力」は労働者の階級斗争にはならない。労働者階級の階級斗争は直接には社会主義の実現に連る斗であるが、綱領ではこの前に民族解放の斗いがある。この解放戦は革命の戦略目標である。日本の革命はここで一段落をつけるのである。この革命的な力を形成するものは労働者、農民、手工業者、小商人は勿論中小の実業家「また多くの企業家や大商人」更に「大なり小なり進歩的な政党と進歩的な知識人の全部」である。これらはまさにロシアの二月革命の革命勢力であり、また中国の革命勢力である。国際的な条件と日本の労働者階級の力を変えると、まさにフランス大革命の革命的勢力である。

日本に封建制が支配的であるならば日本の革命は一応ロシアの二月革命かまたは中国の革命となり社会主義革命は次の段階とならざるをえない。これはロシア革命や中国革命の完全な模倣である。この模倣が先にあつて、これに基いてこの戦略を正当化するために日本資本主義を分析したと称したのである。併し日本資本主義は中国や二月革命前のロシヤより更に発展しており大正の初頃から独占資本が支配権(政治的にも経済的にも)を確立した程度に資本の分解作用が進展していた。ということは労働者階級と資本家階級との階級対立が日本資本主義をつくり上げている根幹を為していたということになる。労働者階級は、資本家階級の多数と共に封建的絶対主義と対立していたのでなく、資本主義階級と直接に対立し、しかもこの対立が今日の日本の支配的な対立であつたのであり、この対立が日本資本主義の運命を決する対立となつていたのである。

だから日本資本主義に対立して労働者階級は直接に社会主義社会実現の斗いを挑むべきであつて、この斗の戦略目標はもはや中国のように封建制や民族解放ではなくして社会主義なのである。そうして日本資本主義になお残存する封建的な遣制や精神を近代化する仕事は、すべてこの社会主義実現のための斗いに随伴する斗いであつて、広範な民衆(労働者、農民の外の)を真正面の労働者階級の斗いに動員し革命エネルギーたらしめるための戦術的な性質のものである。はつきり言えばわが国では民族解放斗争すら戦略目標ではなく戦術目標なのである。したがつてまた民族解放斗争は労働者階級の階級斗争を基調として行われる外はない。―階級斗争が基調であり主動力であつて民族解放斗争はこれに従属するものであり、このエネルギーを強めるものでなければならない。この点で中国における民族解放の斗いとは全くちがつている。

B  日本の現実は日本共産党の認識と違つている。資本主義殊に高度に発達した独占資本の支配下にある労働階級は数的には勿論、意識の上でも社会主義革命の政治意識をもつまでに成長している。この現実と認識の誤りの衝突が日本共産党をして不断に動揺する政党にしている。とんでもない戦術がとられそれが現実にぶつかつて破れる、自己批判が為される。ところがこの自己批判によつて生れた戦術は現実に沿うている場合でも頭の中に三十いく年喰つている物神となつた封建制がこの戦術を敗北と見はじめる。がまん強い質実な運動組織をじつくりと造り上げ成長させる気の長い斗いが支配階級との妥協に見える。そこで再び自己批判が始まる。そこでまた急激に例えば火焔瓶戦術が始まる。頭に永年宿つている封建制の物神が常に組織的な戦いを嫌悪して革命的状勢の幻影を見るのである。日本共産党は何故このような自己批判の間に明けくれしなければならないかを真剣に反省すべき時に来ている。これを客観的状勢の変化などといつてごまかしてはならない。客観的状勢は変つていないのに自分達だけが右往左往したのである。

C  日本共産党が自己批判した冒険主義の根源も日本資本主義を封建制下にあるという認識にある。封建制でなく資本主義が支配していると認識するならば帝国主義的反動政治のもとにあつても、一定の限度において民主主義が存在する。労働者階級が数と意識の上で資本家に対立する力となつている日本にそれはないか、否確にある。

資本主義における民主主義が富める者のための民主主義であり、この意味で「紙の上」の民主主義である。しかし他方日本の労働者階級は労働組合の組織をもち社会主義的諸政党をもつ程度に民主主義を実現している、しかもそれらのものは支配階級である資本家階級に対立する最大の力にまで成長し今日までのところ憲法の改悪をすら阻止している。この組織の力の成長が議会を通しての平和革命を可能にしている。平和革命とは労働者階級の組織の力による革命ということである。このように広汎な勤働者の組織的な力は民主主義的な仕方によつてつくり上げられて成長している。人口の圧倒的多数を占める働く階級の組織という民主主義的な力によることが出来るからそれを民主主義的な手段による革命即ち平和革命というのである。このような革命の方式には極左冒険主義の発生する余地は極めて少ない。しかし民主主義が紙の上にすらない封建制のもとでこのような政党や組合すら存在しない所では民主主義的手段により革命の方法はあり得ない。そこでは武装蜂起暴動以外には被圧迫的階級がその意思を貫く方法はない。農民組織をもつ前の封建性時代の農民が常にむしろ旗を押し立てて一揆を起す方法によつたことは止むを得ないことであつた。

D  日本共産党の中に今日なお蟠居している封建制過重主義は現代における社会革命の組織的民主主義的手段を理解せしめない今日の日本共産党の本質をなしている一揆主義冒険主義の根源はここにある。―かつて野坂氏の平和革命論は正しい核心を含んでいたにも拘らず、てもなく排除され野坂氏自身も至極簡単に自己批判したではないか。そしてその翌日から正反対の見解暴力主義の上に立つて党を指導される立場に残つた。こんなことが民主主義の「自主的精神」に充ちに人間の頭脳で出来ることであろうか。そこに自主性と民主主義の欠如を見るのである。

日本共産党の暴力主義一揆主義の根源である綱領における封建主義は少しも改められていない。この根源を絶つことなくして日本共産党が生れ変ることはない。この根源を絶つ仕事は日本共産党の犯した、そしてまた犯すであろう一切の過誤の根本原因に大手術を加えることを意味している。この大手術が行われる前に日本共産党はマルクスを名乗ろうとレーニンの名で語ろうとそれは名だけであつて依然としてブランキスト党に留るであろう。ブランキズムはエンゲルスが述べているように労働者階級の革命行動を代表することは出来ない。

綱領が生きており戦略は正しいが戦術だけが間違つていたという程度の六全協の自己批判が行われている限り、日本共産党はその本質を改めることは出来ない。

日本の社会主義諸政党や労働組合に日本共産党との間に原則的な統一戦線が成立する場合は正しい戦略と戦術をとる不動の社会主義政党ができ、労働組合が確乎たる組織をもつに至つて、日本共産党の極左冒険主義が全く無力化して多少の混乱が起きても、無産階級全体の上に殆んど無害の程度に委縮したときが、日本共産党が一九世紀初期にふさわしい党から二〇世紀も半の時代にふさわしい社会主義政党に脱皮成長してくる時であろう。

3 岩井章(総評事務局長)は「六全協決定に対する疑問」及び「労働者階級は目標をどこに置くべきか」と題する評論において次のように述べている。(中央公論昭和三〇年一一月号及び昭和三一年二月号)

A  日本共産党は第六回全国協議会の決議により戦術転換を行つた。―この六全協の決議については第一に果して確実に実行されるであろうかという疑問がある。いま一つはこの戦術転換は共産党自体の自己批判から生れたものではなく国際的な背景があるのではなかろうかという疑問がもたれる。殊に第一の疑問は私自身が戦後一〇年国鉄労働組合の中で共産党員の諸君と一緒に斗つた経験を持つているだけに、一層その感を深うする、総評をはじめ全労、新産別の組合員諸君も私同様に或はより以上に、この問題については疑問を持つているのではないかと思う。

民族解放民主統一戦線は、いわゆる人民戦線戦術で、労働者の立場から言えば無原則な統一戦線方式である。日本資本主義の現状から観てこのような戦術は極めて危険な要素をもつていると言える。かつて終戦直後社会党、共産党等によつてこの人民戦線戦術が提唱されたが成功しなかつた。その理由は大衆の意識が未だ高揚していなかつたことに根ざしている。戦後一〇年ある程度は労働者階級の意識は高まつているが未だ人民戦線が成功する程高まつていない。しかも労働者階級は相対的には弱い力しか持たない現在の段階で無理にこのような戦術をとれば戦線は混乱を起すのみでフアシズムに利用されるであろう。従つて新綱領及び第六回全国協議会の決議に一貫して採用されている人民戦線方式は日本の現状を無視した戦術といわざるを得ない。

B  かつて共産党は労働組合運動に対して彼等の国際的な戦略コースから無責任な煽動を行い、無責任なストライキを指導してきた歴史を持つている。特にメーデー事件の如きは、共産党の国際主義に基く極左冒険主義の典型的な現われで日本の条件を全く無視した行動であつたと思う。これ等は終戦直後所謂コミンフオルムの野坂批判が具体的に実践されたものに外ならないが、今回の六全協の戦術転換も日本共産党自体の自己批判ではなく国際背景によつてなされたもののように思われる。このような疑問を持つのは日本共産党の方針が外国の批判なり圧力によつて戦後幾度か変つて来た歴史を知つているからである。大衆の疑問も当然この点にある。

例えば鳩山内閣の性格についても六全協決議はある面では吉田内閣以上の反動政府であると言いながら、他の面では吉田内閣と同一視するのは誤りだと言つている。これは要するに日ソ、日中国交調整の面のみを見て本質的な国内の条件の上に立つた観方ではないからではあるまいか。明かに国際主義を強調しているに過ぎない。

六全協決議は戦争と平和の間には中立はないと言つている。ところが西独や朝鮮台湾などを中立化させようとするソヴエツト中国の提案には共産党は支持を与えている。これも国際主義の立場で片つけるのであろう。このように観てくると日本共産党が指導している平和運動も文化運動も他のすべての運動も皆共産党だけの別の目的でやられているのではないかという疑問をもつ。もつと日本における条件の中での中立政策を正しく評価して見る必要があるのではないか。

4 証人羽仁五郎(歴史学者元参議院法務委員)の供述調書によると同人は日本の現代及び将来に実現することが予想せられる革命現象について述べている。

現在及び将来において社会主義社会が実現されそれについて社会主義革命が考えられる場合に、一九一七年のロシヤ革命を念頭に置くのは一般に歴史学を研究しない者が陥り易い誤りであつて歴史学上それは似ても似つかないものである。歴史は繰返さないのが法則である。一九一七年の革命の歴史はそれぞれの歴史的条件によつて初めて必然性ができているのであるから、その条件の一つが変つてもその歴史は現在又は将来に当てはまらない。従つて学問的には日本に限らず現在の世界において社会進化上、一九一七年のような革命が起ると考えられない。

比較的最近において発生し社会進化上革命の前哨と見るべきものは第二次世界大戦後の人民民主主義革命と言われるものである。これは現在の日本に対しロシヤ革命よりも条件の共通する点が多いので現在及び将来の日本に考えられる社会進化上の革命的現象を判断する上に参考になる点が多い。これは第二次世界大戦後欧州においてポーランド、ブルガリヤ、東ドイツ、チエツコ、ハンガリー、ルーマニヤ、アルバニヤ、八箇国に起きた人民民主主義革命であり、次に中華人民民主主義革命である。これ等が一九一七年の革命と非常に相違する点は最近の人民民主主義革命が共産党の革命でないということ共産党以外の民主的政党が協力していること、中国においてもチエツコ、ハンガリーその他の諸国においてもそうであるがキリスト教徒、民主党、農民党等が共産党と連合政府をつくり機関紙を発行している。そこでは唯一の党即、人民主権を認めない政党だけが排除されている。それは民主主義政党だけが連立している政権である。社会生活上でも資本主義的な経営場合によつては個人主義的な経営は一九一七年の革命の場合には極めて制限され或は全然認められなかつたが、人民民主主義の革命の場合にはそれが広く認められている。前者の場合には土地は悉く国有であるが後者の場合比較的大規模な土地は国有にされ中小土地の個人的所有は自由である。その個人的所有地の上に耕作の共同経営に参加することを奨励しているが、農民中四割位しかそれに参加していない。この点は一九一七年の革命と非常に違つている。現在日本或は他の国に社会進化の上で革命的現象が必然であるとしてもその革命は第二次世界大戦後の人民民主主義革命より可成り進んだものであると学問上想像することが出来る。況や日本の現在或は将来に想像される社会革命的現象が一九一七年の革命と似たものであろうと考えることは学問上相当でないと断言する外はない。従つて一般的に日本の現在或は近い将来に所謂暴力革命が起り得るものと学問的に考えられない。

政権が移動する場合に移動させる力に対し大なり小なり現在の政権を維持しようとする力が現われることは当然であり避けがたい。現在の政権を維持しようとする力が憲法違反であろうと何であろうと手段を選ばず強くなつて来るとそれに対応して政権を移動させようとする実力の動きが激しさを持たざるを得ない。そのような不幸な場合もあろうと考えられるがそのような事態は余り起らないと確信している。要するに現代の日本の社会的進歩の上に革命的現象が必然的に発生してもそれが所謂暴力革命になるという歴史的根拠はない。

東条政府の行つた対外戦争政策や国内政策に対し国民の多数はそれを正しくないと認識していたが明かに反抗する勇気を持つた者は少なかつた。現代の日本国民が不正に対し勇気をふるつて抵抗しようとする方向に徐々に進んでいることはまことに望ましいことである。

敗戦後一〇年間に日本国民の間に民主的な新しい力が出来ていることを客観的に立証することが出来る。労働組合等に敗戦前の考え方もまた若干残つているかも知れないが現在主体となつているものは民主的合法手段によつて社会進化を実現することが出来るという確信が至る所に高まつていることを指摘することが出来る。―その意味で現代日本の社会進化の上に色々の面から考えて暴力主義的な傾向は考えられない。

5 エンゲルスは夙に資本主義国家が共産主義国家によつて代替されるのは通常ただ暴力革命によつて可能である。被圧迫階級の解放は暴力革命なしには不可能である。共和制の国々または非常に大きな自由を持つ国々で社会主義えの平和的発展を想像することが出来るが、政府が殆ど全能であり、国会やその他一切の国民代議機関が実権を持つていないドイツでそのようなことを、しかも何の必要もないのに宣言することは絶対主義から無花果の葉を取り外して自分みずからをその絶対主義の裸身の前に縛りつけることであると説き暴力革命の不可避性を強調した。(レーニン著国家と革命参照)そのエンゲルスは後年第一次大戦前ドイツ社会民主党勃興の事実を目前に見て旧式の叛乱によつて政権を奪取する時代はすでに過ぎた奇襲の時代即ち無自覚なる民衆の先頭に立つ自覚ある小数者によつて遂行せられる革命の時代は過ぎた。世界歴史の皮肉は一切事物を顛倒せしめた。革命家顛覆家たるわれわれは違法手段及び顛覆よりも合法手段によつて遥によりよく栄えると述べ、革命党が合法運動によつて却てより良く目的を達成し得る時が到来することを容認した。

わが国の現状においても前記1及び4の諸説によると民主主義政治の確立により労働者階級は政治的自由を拡大し暴力を用いずに国会を通して平和的に労働者階級の政権を樹立することの可能な道を開いている。革命の歴史はそれぞれの歴史的条件によつて初めて必然性が成り立つている。現在及び将来の日本に想像される社会進化上の変革がロシヤ革命や中国革命のように暴力革命であると考える歴史的根拠はない。前記2及び3の社会主義政党や労働組合の支持者や指導者の論評はそれを裏書している。

然るに日本共産党の指導者達はことごとに吉田政府を売国的であると詈りながら誰か烏の雌雄を知らん。自らも国際主義に追随して自主性を喪い日本の現状における民主主義の発達と労働者階級の組織的な力を過少評価し、人民民主主義革命を選び暴力方式を採用し労働組合運動に対し無責任な煽動を行い軽卒なストライキを指導した。昭和二六、七年頃一般国民は学者や評論家や労働組合指導者等からそのような明快な警告を聴くことの出来なかつたことは洵に不幸であつたがそれでも戦後民主主義政治において極左冒険主義の芽を凋ませる能力を具えていることを実証した。社会進化について歴史を無視し日本の民主主義の発達を過少評価すると極左冒険主義に陥る虞れがあるが、共産党恐怖症も亦社会主義発展の歴史的研究を怠り日本の民主主義の発達を過少評価することによつて発生するのではなかろうか。現実の社会現象について冷静な判断力を欠くことにおいて両者に変りはない。破壊活動防止法案審議に際し法務大臣は煉瓦が二つ三つ飛んだり拳銃の二、三挺位は驚くに足らない、左様なことについて同法案を提出したのではないと答弁している。(弁護人提出の証拠羽仁五郎著―破防法と如何に斗うか)

6 共産主義批判の常識

A  すべてこれまでの歴史は階級斗争の歴史である。諸階級の存在はもつぱら生産の特定の歴史的発展段階にだけ結びついている階級斗争は必然的にプロレタリアートの独裁に導く。この独裁そのものは一切の階級の揚棄と無階級社会(共産主義社会)とに至る過渡期に過ぎない。やがて無階級社会に達すると各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて与えられる勤労者の天国が実現する。これがマルクス主義の本質であると説かれている。

カール・ラデツクは社会主義革命は資本によつてつくり出された状態が労働者階級にとつて堪え難きものとなる処では何れの国においても起り得るし、又起るであろうと言い、マルクスはこのような堪え難い状態は資本主義の発達が必然的にそれをつくり出すと説いた。しかしマルクスの期待したような革命は西欧の先進資本主義国では何処にもつくり出されず却て資本主義の遥におくれた東欧に戦争の結果つくり出された。社会主義革命は資本主義組織の比較的薄弱な抑圧機関の混乱した資本主義国に始つた。ロシヤ革命はマルクスが言つたような生産力の過度の増進のために起つたものではない。それとは無関係に起つたものである。(小泉信三著共産主義批判の常識参照)

又証人羽仁五郎は前記のとおり一般的に日本の現在或は近い将来に革命的現象が発生しても、それは第二次世界大戦後東欧に実現せられた人民民主主義革命よりも可なり進歩したものであろう。ロシア革命と似たものであると考えることは学問上相当でないと断言している。

およそ経験科学の領域において未来の歴史的経過に対する必然論は成立しない。与えられた条件に徴しわれわれは未来の経過に対し或る可能性又は蓋然性を結論することが出来る。無数の原因の輻合する現実の歴史的世界においては、それ以上に動かし難い単一の因果連鎖の絶対的な束縛を意味する必然というものは認められない。資本主義の発展と共に或は旧来の中産階級が没落し被傭者層が膨脹して階級対立が単純となるとか、また或は中小企業が併合せられて生産が大経営に集中するとか、その他社会主義の実現に有利と認められる状況がつくり出されることは確に事実である。しかしこれによつてわれわれの結論し得ることは社会主義到来の可能性乃至蓋然性に過ぎない。若しそれ以上に進んで社会主義の必然性を説くならば甚だしい誇張か、或は経験科学の領域を超えた形而上学的断定に帰するであろう。それは何処までも厳密に科学的であろうとしたマルクシズとは相容れない立場である(前掲共産主義批判の常識参照)

B  一般に資本主義経済においては分配が当を得ないことによつてのみ貧困が生じていると考えがちである。無論分配の問題はあるが生産が絶対に不足しているのが日本の現実である生産を増し勤労者の実質所得を高めるためによく働き労働の限界生産力を高めなければならない。しかし生産資源の乏しい国では働けど働けどわが暮し楽にならじ、じつと手を見なければならない。

一九五五年二月一四日に開かれたソヴエト共産党第二〇会大会においてフルシチヨフ第一書記は一般報告演説を行つた際、「われわれはソヴエト権力が樹立されたそもそもの初めから恒に確乎たる態度で平和共存を主張していることは周知の事実である。社会主義国家が侵略を始めたいと思うような理由が一つでもあるであらうか。われわれの国には致富の手段としても戦争に利益を感ずるような階級や層があるだらうか。否、わが国では彼等はずつと前に一掃されている。それともわれわれは耕地や天然資源が不足しているだらうか。或は原料資源や自国の商品の市場に不足しているだろうか。否、われわれはこれ等のすべてを余分なほど持つている。われわれは戦争を必要としない云々」と卒直に述べている。それから三日目ミコヤン第一副首相は討議演説を行い「農業の立ちおくれはコルホーズ員の収入を高め処女地や休閑地を開拓する方法で解決された。二ヶ年間に開拓された新開地は三三、〇〇〇、〇〇〇ヘクタール(三〇、〇〇〇町歩)であつた」と述べている。ロシアは偉大な共産主義国である前に広大な土地と豊富な天然資源を持つた巨大な富国である。革命により資源の開発と工業の発達を促し耕作用M、T、S(機械、トラツクター、ステーシヨン)等を整えて農業生産力を高め必要に応じて与えられる量を増加することが出来た。それでも尚暴力革命によつて惹起された混乱が生産を妨げた事実と相俟つて一九二一年の飢饉の際には飢餓死の数が三、〇〇〇、〇〇〇乃至七、〇〇〇、〇〇〇に達し飢えた人間があさましく屍体をむさぼり親が幼児を生きながらボル河に投ずる地獄の光景を現出した残虐な教訓を残している。

わが国はフルシチヨフ第一書記の言を引用するなら平和共存など自主的に唱える資格のない耕地も原料資源もすべてが乏しい貧国である。その上に世界の四大富強国の国際専制政策ポツダム宣言により九〇、〇〇〇、〇〇〇に近い人口が食糧と生産資源の乏しい四つの小島に押し込められている。耕して山頂に至る貧国であることを知らねばならない。見返りとして国民のこう血を搾り年々一、〇〇〇、〇〇〇トンの食糧と各種原料資源を輸入せなければ自立することの出来ない重荷を担わされている。社会進化の途上にどのような革命的現象が発生しても各人に分配せられる果実の多かろう筈はない。占領政策によつて一度弱体化されたわが国の経済がその後自力のみによつて現状にまで復興したと考える者はない。経済自立性を剥奪されている限り何れかの勢力に依存しなければならないが、国際経済に搾取の免がれ難いことは最近の東欧中東の国際情勢がはつきり示している。革命に伴う国内の混乱と国際関係の変動に拘らず食糧と原料資源を確保し生産を妨げず分配を維持増進する十分な準備を怠り一挙にプロレタリアートの独裁に導入するならば大衆の期待を裏ぎり日本民族を危殆に陥れ悔を千歳に残すであろう。

C  マルクス主義が約束した「各人の能力に応じて働き各人の必要に応じて与えられる」天国は果して近い将来に期待することが出来るか。国家が生産手段を国有管理し広汎な社会主義計画経済を立案遂行する場合に一々人民代表の意見を問うて処理することは事実上不可能であるから現実には官僚管理の政治が行われるとそこに官僚党人優位の階級が作られるであろう。その階級は専ら生産の特定の歴史的発展段階にだけ結びつくと否とに拘らずそれは旧社会の中から発展してこれに置き代つた新特権階級である。既に新特権階級として現われた限りその階級と他の階級との間に何等かの斗争が行われるであろう。特権階級が漫然わが世の春を謳歌し千代万年の繁栄を疑わなかつた場合は勿論予め新興階級の芽を摘み根を絶つて国家百年の備えを怠らなかつた場合においてさえ尚新興階級に置き代えられる運命を免がれなかつた。それがこれまでの歴史であつた。物質生活が存続するに拘らず階級斗争が終焉に達したと言うならそれは唯物史観ではない。無階級社会に至る過渡期に属するソヴエト連邦は革命後四十余年を超過しても賃金率の差は一対五〇である。その差は資本主義諸国の賃金率の差よりも甚だしいとさえ言われている。その大差を短縮するには人間の欲望が洗脳される以外にマルクス主義にとつても尚理論上多くの問題を解決することが必要であろう。人間性が改変せられ時期を待つて漸く天国に到達することが出来るなら天国の到来は短い人生にとつては永遠の未来であると覚悟せねばならない。

D  前掲岡本清一教授は法廷において裁判官の質問に対し社会主義国家においては政府は人民の要求を聴いて人民のために政治を行うことが建前になつているから政府を交替する必要はない。政府が善政を行うように批判を加える自由は認められるが政府を打倒する自由は認められないであろうと述べている。しかしソヴエト連邦の刑法典や中華人民共和国徴治反革命条例を一瞥するならば政府を打倒する自由を認めず反革命罪として厳罰している国においてそれと表裏する政府が善政を行うように批判を加える自由が認められていると言うのは全く空論に過ぎないであろう。若しそれが空論でないなら数十年来司法権の独立と罪刑法定主義を堅持しているわが国において同教授が政府を平和的な手段によつて打倒する自由を明確に承認している破壊活動防止法反対の示威行進の先頭に立つ必要はなかつた。民主主義の先進国であるアメリカにおいて共産主義に多少脅威を感ずる時期に至るとたちまち明白且つ現在の危険の法則を変更した事実と正反対に社会主義国と雖も資本主義国の包囲が解消しその他情勢の変遷により国際関係が安定し国内においても政治的基本組織が確立し内憂外患の脅威を感じない時期に入ればブルジヨア民主主義政治の法則を承継し政府を打倒する自由を寛容し社会主義の発展を促すに至ることを容易に想像することが出来る。従つて将来国際関係が安定し先進社会主義国がブルジヨア民主主義政治の法則を継承した後わが国に漸く社会主義社会が実現したとしてもその時期は経済自立性を欠いているわが国にとつては最も安全な時期であろう。

E  以上を要約するとわが国の地理的歴史的諸条件を軽視乃至無視した無謀な政治的変革の促進は日本民族を破滅に陥れる虞れがあると観なければならない。日本民族は過去において幾度か外来思想を継受しその都度長足の発展を遂げている。敗戦後民主主義を押しつけられたと言えるが卒直にこれを摂取し地理的歴史的諸条件に従つて調整するならば禍を転じ民族興隆の途に進展することを期待することが出来るであろう。民主主義政治の発展を期待するためには裁判所は確乎たる世界観に立脚して健全な民主主義の発展を阻害する無謀な政治的変革を排除すると同時に民主主義政治発展の力である自由の要求を冷静に理解しこれを制限することに慎重でなければならない。

第七、帰結

一、政治的自由就中言論の自由は前記のとおり政府を攻撃し打倒する自由である。政府と意見を同じうする者のための思想の自由ではなく政府の憎悪する思想のための自由である。この自由を完全に保障しなければ民主主義政治の発展を期待することが出来ない。アメリカ憲法の一部になつている独立宣言中に明瞭に国民がその政府によつて生活を守れなくなつた場合には合法的に政府の更迭を求めることが出来るのみならずこれを革命的に転覆することが出来ると銘記している。リンカーンはこの独立宣言書の趣旨に附け加え、それは権利であるばかりではなく義務であると言つている。しかしながらそのアメリカにおいても言論の自由は一般的に絶対的なものと認められていない。この自由の行使によつて国家社会の利益に侵害を加える危険があるならば場合によつてこの自由は制限されるが言論の自由に不当な制限を加えることなく、しかも国家社会の利益を保護するために何等かの基準が必要である、明白且つ現在の危険の法則はこの基準を定める一つの方法としてアメリカ連邦最高裁判所ホームズ、ブランダイス両判事が一九一九年シエンク対連邦事件において提唱して以来アメリカ法曹会において是認されていた。然るに一九五一年デニス対連邦事件―この事件の被告人等は主としてマルクス・エンゲルス著―共産党宣言(一八四八年)レーニン著―国家と革命(一九一七年)ソ連邦共産党史B(一九三四年)スターリン著―レーニン主義の基礎(一九二四年)の四冊の著書に含まれたマルクスレーニン主義を人々に教育し、また自らも学ぶための団体を結成した。それが(1)アメリカ合衆国共産党として暴力をもつて合衆国政府の転覆破壊を教育し支持する団体を結成し、(2)暴力をもつて合衆国政府の転覆、破壊の義務、必要性を支持し教育した行為につきスミス法第二条違反の嫌疑があるとして起訴せられた―において明白且つ現在の危険の法則が重大な変更を受けたことは前述のとおりである。

日本国憲法は基本的人権を侵すことの出来ない永久の権利(第一一条)として保障しこれを剥奪することを絶対に許さないと共に、この基本的人権を制限し得るのは公共の福祉のために必要な例外的場合に限るとしている(第一三条)基本的人権は国民が人間らしい生活をして発展するためにも国家は最大限に尊重し保護しなければならいがその基本的人権の行使が他人の権利を侵害するとか或は社会の秩序ある発展を阻害する場合にはやむを得ず例外的にこれを制限することが許されなければならない、憲法第二一条を以て保障している言論の自由もまた絶対的なものではない。この自由の行使によつて国家社会の利益に侵害を加え公共の福祉に反する場合に制限せられることは承認されねばならない、破壊活動防止法第三八条に関する限り憲法に違反する条章であると言えない。しかし同法第二条にこの法律は国民の基本的人権に重大な関係を有するから公共の安全を確保するために必要な最少限度において適用すべきであつて苟もこれを拡張するようなことがあつてはならないと明記しているのは当然である。それはホームズ、ブランダイス両判事の所謂明白且つ現在の危険の法則に従つて本法を適用することとその趣旨に変りはない。而して本件文書頒布以前からこれと同趣旨の文書が頒布せられていたのに拘らず国民の前に虚偽と誤謬を暴露し明白且つ現在の危険が認められなかつたことは前述のとおりである。(第四の五、六)

二、破壊活動防止法第三八条第二項第二号には前記第四の一、説示のとおり刑法第七七条(内乱の罪)に第八一条又は第八二条の罪を実行させることを目的としてその実行の正当性又は必要性を主張した文書又は図画を印刷し、頒布し又は公然掲示した者を罰することを定めている。これに該当するスミス法第二条第二項は前項に掲げた政府を転覆又は破壊させる目的を以て合衆国内の政府の暴力による顛覆又は破壊についてその義務、必要、願望、又はその妥当性を唱導、もしくは勧告教導することを内容とする文書又は印刷物を印刷、出版、編集、発行、回覧、販売、配布もしくは公示した者及びその未遂者を罰することを定めている。後者の罪は政府を転覆又は破壊させる目的を以て行われることが要件であるが前者は内乱の罪即政府を転覆し又は邦土を僭窃しその他朝憲を紊乱することを目的として暴動を為す内乱の目的を以て行われることを要件としている。単に政府を転覆又は破壊させる目的だけでは足りない。日本国領土の全部若しくは一部において国権を排除してほしいままに権力を樹立する目的が主観的に且つ客観的に認められることが必要である。この点において破壊活動防止法はスミス法よりも言論の自由を制限することに慎重である。明白且つ現在の危険の法則をヴインソン長官の説いた趣旨に変更し、内乱発生の客観的情勢の切迫していると否とを問わず破壊活動防止法第三八条第二項第二号を適用することは公共の安全を確保するために必要な最少限度を超えて適用することに外ならない。若し革命的情勢若しくは内乱情勢が存在しないが多衆の武装の準備と行動が公共の安全を脅すおそれがあるから反社会的行為としてこれを制限する必要があるならば現行刑法を改正し独乙刑法第一二七条第一二九条等のように内乱の目的の有無を問わず集団武装や犯罪的結社を禁止し、その違反者を罰するのが適当であろう。

以上を要約すると被告人等が共謀若しくは単独で昭和二七年九月上旬日本共産党京都府委員会の命を受け同委員会発行に係る内乱罪実行の正当性と必要性を主張した京都のハタ復刊第二号を頒布した事実は認められるが主観的且つ客観的に内乱を実行させることを直接の目的としてこれを頒布した事実が認められない。仮令被告人等が内乱を実行させる目的を以て本件文書を頒布したとしても本件犯行当時客観的情勢に鑑み公共の安全を確保するために本件文書の頒布を禁止することが必要であつたとは認められない。結局本件は犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三三六条に則り被告人両名に対し無罪の言渡をする。

(裁判長裁判官 小田春雄 裁判官 藤原啓一郎 裁判官 佐古田英郎)

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